2011年12月14日

連載(35)

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       14.楊貴妃と仲麻呂の再会


 まだ高力士が生きているころのことである。阿倍仲麻呂と藤原清河(きよかわ)が遣唐使船で日本に帰国するため揚州(ようしゅう)の港を出航したのは、七五三年(日本 天平勝宝五年)の暮れであった。難破し、遠く安南(あんなん)(ベトナム)の地まで漂流したが、無事長安に戻ってきたのは、一年半後の夏であった。
安録山(あんろくざん)が范陽(はんよう)(北京)にて謀反を起こしたのはそれから数ヶ月後、同じ年の十一月であった。洛陽が陥落したのは十二月で、続いて長安が陥落したのは、翌年の六月であった。

「朝衡、よく生きて還ってきたな。天はお前を日本に帰したくなかったのであろう」
 高力士が笑みを浮かべって言った。
「そうかもな、また貴殿に逢えるとは」
「楊貴妃様も喜ぶことであろう」
「天子様と楊貴妃様はお元気か」
「ああ、お元気だが・・・、ことによっては都を落ちなければならない」
「なんと、都落ちとは。どこへ」
「わからぬ。安録山のやつが謀反を起こし、あっというまに洛陽が占領された」
 高力士が教えてくれた。
「遂に破局を迎えたか。安録山の謀反は玄宗にではなくて、楊国忠への反発であろう」
「そうだ。お前が去ったあとの唐国は瀕死の状態だ」
「生きてやっと長安に還ってきたが、長安も危険だとわ・・・」
「このままだと長安も危ない」
「どうしたらよいだろう」
「朝衡(ちょうこう)、ひとまず南下し襄陽(じょうよう)(長安の南、湖北省)辺りで、休養しながら身の安全を図る方がよい」
 仲麻呂は長安に落ち着く暇もなく、襄陽へと下った。襄陽のすぐ南にある研山(けんざん)の麓の寺に身を隠した。高力士の手紙を受け取ったのは翌年の早春、この襄陽の地でのことであった。
「おお、李白の詩だ。これは高力士殿からの手紙に間違いない」
 季節はずれの、乾いた一片の楓の葉が手紙の間から、襄陽の春風にひらりと舞い落ちた。
「戦乱の下、ここまで手紙が届くまでにかなり時間がかかったようだな」
「傾国(けいこく)とは・・・楊貴妃だ。楊貴妃しかいない。しかし、楊貴妃は馬嵬(ばかい)で死んだと聞いている。実は生きているのか、まさかそんなばかな、いずれにしろ何かある」
 彼は興奮した。
「とにかく、あいつの故郷、剣南(けんなん)の寺に急いで行ってみよう。何かがわかるだろう。楊貴妃が身を隠し生きていてくれれば」
 そんなことはまさか・・・と思いながら、五十七歳の仲麻呂は少年のように胸が高鳴った。男は幾つになっても女を愛することを忘れない。

 仲麻呂は襄陽を後にして、先ず長安へと急いだ。彼は楊貴妃がこの世に生きていると信じた。目の前が明るくなり、高揚した。
「そうだ、楊貴妃に衣裳と薬を持っていこう」
 二十年の禁断の愛が叶えられようとしていた。
 仲麻呂は一揃えの衣服と新茶を手に入れるため長安の西市に走った。安録山に占領されていた長安は荒れ果てていたが市場は活気を取り戻し始めていた。西市の綵棉行(さいはくこう)をかたっぱしから歩いて回った。
 山吹色の透けた羅絹(うすぎぬ)の羽衣(はごろも)。橡(つるばみ)(黒に近い灰色)の帯。そして最後にやっと、
「おお、これだ。これだ」
 二藍(ふたあい)の濃淡に柘榴(ざくろ)の花模様をあしらった六尺ほどある風衣(ふうい)をウイグルの女の店で遂に見つけた。
「これらに緋(ひ)のあしぎぬを付け加え、楊貴妃のために一揃えの衣服を揃えよう」
 日本から四十年前持ってきた緋のあしぎぬを一反だけ残しておいたのである。それは美濃のあしぎぬであった。小石丸(こいしまる)という小さな繭(まゆ)を原料として織った貴重な物である。染料には天然の茜(あかね)の根を使い五十回以上染め直し、いくぶん黄色味を帯びた鮮やかな深い赤を創り出した。これがあの光沢のある緋色(ひいろ)のあしぎぬであった。
「日本から持ってきた緋色のあしぎぬが、あの時見た、阿環(あかん)の長裙(ちょうぐん)(ワンピース)の赤と同じだ。楊貴妃には緋色のあしぎぬがよく似合う。夏の光に照り映えていたあの赤だ」
 仲麻呂は二十年前初めて楊貴妃を見染めた、その姿が瞼(まぶた)に鮮明に焼き付いて離れなかった。
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「あの時の、あの服を着せよう」
 仲麻呂はその時の彼女の姿を再現したいと思い、一揃えの衣服を楊貴妃に贈るため作らせた。
 楊貴妃が大好きだった湖州紫笋(こしゅうしじゅん)の新茶も市場で手に入れることが出来た。
 その服一式と茶をたずさえて、剣南(けんなん)の地、高力士の故郷の大雲寺に急いだ。
「楊貴妃は本当にこの世に生きているのであろうか」
 道中、半信半疑で何回も自問自答した。もう春が過ぎ、初夏になっていた。
「急がなければ」
 気がせいた。
 剣南の緑の森に荒れ果てた大雲寺が埋もれていた。楊貴妃は春が過ぎて待ちくたびれていた。不安がつのりつつある初夏の日、ひづめの音を聞いた。胸騒ぎがした。阿倍仲麻呂が新緑の細道を白馬に乗って、緑をかき分け大雲寺に現れた。竹の葉におりた露が白衣をぬらした。仲麻呂は激しくときめいた。

「ああ、白衣と白馬。蓬莱(ほうらい)の人だわ。まさか、いえ間違いないわ。あの最初の出逢いと同じだわ。あなたが迎えにきてくれるとは。亡霊ではないでしょうね」
「おお、楊貴妃様、なんとご無事で」
「朝衡様が生きているとは。これは夢ではないでしょうね。朝衡様、逢いたかった。ああ、こんな格好で、恥ずかしいわ」
 宦官の服装のまま楊貴妃は仲麻呂の胸にもたれ、崩れ落ちた。仲麻呂は強く抱きしめた。涙が止めどもなく流れて止まらなかった。楊貴妃は、阿倍仲麻呂が遣唐使船で日本に帰国時、遭難して亡くなったと、聞いていた。その後の情報は何も知らなかった。一方、仲麻呂は、楊貴妃が馬嵬で非業の死を遂げたと聞いていた。
「ああ、一番来て欲しいお方が来てくれた。朝衡様、声を出して下さい。幻ではないですね。暖かいわ。本当に夢ではないですね」
 楊貴妃は小さな手で、仲麻呂の硬い腕、大きな肩に触れた。そして彼の衣服を掻き分け手を差し入れ、厚い胸を直に撫ぜまわしながら言った。
「楊貴妃様がなぜここに。馬嵬で亡くなってはいなかったのですか」
 仲麻呂は楊貴妃が生きていて欲しいと強く望んでいたが、まさか、本当に生きているとは思ってもいなかった。
「世間では死んだと伝えられている二人がこの世で逢えるとは」
「信じられない、奇跡だ。黄泉(よみ)の国での再会ではないな」
「ああ、胡蝶(こちょう)の夢でしょうか」
 まさに奇跡の再会であった。水のなかを漂っているような、雲の中を歩いているような、二人は抱き合ったまま、離れることがなかった。初夏の長い日も暮れようとしていた。燃えた仲麻呂の体から冷えた楊貴妃の体に熱が流れ込むようだった。
 仲麻呂は手紙を楊貴妃に渡した。楊貴妃は一読して言った。
「おお、これは私の手紙だ」
 手紙の間から一片の乾いた赤い楓の葉が緑の風にひらりと舞い散った。楊貴妃は涙を流した。高力士が自分の想いを代わりに書いてくれた手紙だと、すぐ理解した。
 元気を取り戻した楊貴妃は、想い出したように仲麻呂に尋ねた。
「ところで最初にお逢いした時、なぜ、私の名前をご存じでしたの」
 仲麻呂はそれには答えず、自分の腰に付けていた金の鳳凰(ほうおう)のかんざしを外し、楊貴妃の髪の毛に刺し、髪の毛をそっと優しくなぜた。
「遅くなったが、かんざしを返します」
 それは二十年前楊貴妃から貰った金のかんざしであった。そして、仲麻呂は一揃えの服を楊貴妃に渡した。
「どうか水浴びをして、この服に着替えてください」
 楊貴妃は素直にうれしそうにうなずいた。
「ええ。過去を全て、洗い流したいわ」  
 初夏の大雲寺には薄紫の藤の花が咲き乱れ、その香りに二人は包まれていた。廃屋(はいおく)は深閑として誰もいなかった。
 彼女は薄汚れた濃い緑の宦官の服をそっと脱ぎ捨て、全裸になった。新緑に白い裸体が浮き上がり、肢体に藤の紫が陰を落とした。仲麻呂は寺の井戸の水を汲んで楊貴妃にかけた。
「ああ、冷たくて、気持ちがいい」
 仲麻呂は大きな長い指で、楊貴妃の肢体を隅から隅までやさしくなでながら、きれいに洗い清めた。すべすべとした柔らかい肌であった。
 長い指は黒髪を静かに撫で始めた。目を薄く閉じ静かに息づく。仲麻呂はひざまづいた。
 指は優しくうなじ、胸、腹、下半身へと動く、しなやかな指は膨らみからくぼみへとていねいにぬぐう。恥ずかしそうにあえいだ。
 盛り上がった硬い腕の筋肉が楊貴妃の胸に強く触れた、小刻みに震える乳房、はりだす乳首、心地よく波打つ腹、激しく悶え始める息づかい。
「ああ。ああ」
 透き通るような白い肌が薄紅に変わっていく。急いで裸の肌に、直接、薄い二藍(ふたあい)の風衣(ふうい)をまとった。
「美しい。昔と少しも変わていない」
 仲麻呂は思わず、紅梅色(こうばいしょく)に透けて見える絹の上から、その大きな手で肩から乳房へとそっと触れた。阿環は紫微(しび)(サルスベリ)の木のように震えた。そして仲麻呂の胸の中に顔をうずめた。仲麻呂はしっかりと受け止め、強く抱きしめた。庭の鳳仙花(ほうせんか)の種がはじけて散った。楊貴妃の体は激しく熱く燃えていた。
 楊貴妃は宦官から女に戻った。そして、楊貴妃から阿環(あかん)に戻った。
 絢爛(けんらん)と虚栄の残滓(ざんし)は全て洗い流された。脱皮の苦しみは陶酔でもあった。
「楊貴妃様。生きていてよかった」
「朝衡様。楊貴妃は馬嵬で亡くなりました。私はもう貴妃ではありません。これからは阿環(あかん)と呼んで下さい」
「阿環。逢いたかった」
「朝衡様。わたしもです」
 そのまま、何時までも二人は、むさぼるように抱き合い、求め合った。
 太陽の光りで彼女の身体は輝いていた。胸から腹部への微妙な起伏の曲線が美しい陰影を創りだしていた。
 日が傾き、急にひぐらしが鳴き始めた。二十年前の、長安のあの夏の日と同じように。
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