2011年12月08日

連載(31)

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        12. 楊貴妃は生きていた


 玄宗(げんそう)皇帝が楊貴妃にうつつをぬかすようになってからは、楊貴妃の従兄楊国忠(ようこくちゅう)と安禄山(あんろくざん)が権力闘争を始めた。安禄山は范陽(はんよう)(北京)、河東(かとう)(太原(たいげん))、平廬(へいろ)(沈陽(しんよう))の三節度使(せつど)(国防を司る皇帝直轄の地方警備の将軍)を兼任し、強力な軍隊を配下に持っていた。
 七五五年(日本 天平勝宝七年)の十一月、安禄山は、幽州范陽(ゆうしゅうはんよう)(北京周辺)にて、遂に反旗をひるがえした。
「逆臣揚国忠を討つ」
 と、掲げた。安禄山はソクド人(トルコ人)で、当時、強国、唐と阿拉伯(アラビア)の間に挟まれて暮らす民族であった。商売上手で戦争に強く、また、音楽や踊りに優れた、極めて優秀な少数民族であった。反乱軍、十五万の大軍は陣太鼓を打ち鳴らし、大地を鼓動し洛陽(らくよう)を目指して南下した。
「まず、洛陽を落とす」
 契丹(きったん)、突厥(とっけつ)の騎馬民族を従えた大軍は、疾風のごとく、中国東北部を支配下におき、東都洛陽へと快進撃した。胡馬(こば)(北方異民族の馬)は北風に、漠々(ばくばく)と風沙(ふうさ)を巻き上げ、蕭蕭(しょうしょう)といなないた。軍中の角笛(つのぶえ)の調べが邑々(むらむら)に悲しげに響きわたった。騎馬隊の進軍したあとの砂塵は、暗雲が大地を覆い被したようであった。
 翌年の正月洛陽は、占拠された。美しい洛陽城は蛮人により殺戮(さつりく)と暴行で焦土(しょうど)と化した。 安禄山は洛陽にて大燕(だいえん)皇帝と称した。これは天平勝宝(日本)の遣唐使が帰国してから、わずか三年後の惨事であった。

 ちょうど、長安と洛陽の中間にある潼関(どうかん)が官軍にとっては最後の砦となった。北から南に流れている黄河が、ここ潼関の地で南を華山(かざん)に阻(はば)まれ、北から東に大きく九十度向きを変えている。北と東は黄河の濁流、南は華山の断崖に守られている要塞であった。したがって、長安への道 西の渓谷だけを抑えればよかった。
「我が大軍に立ち向かうとは愚か者よ」
 安禄山が言った。
「安禄山将軍、何度攻めても落ちません。難攻不落です」
「敵の大将は一体誰だ」
 安禄山が大きな体を揺り動かしながら聞いた。
「かって、砕葉(さいよう)(タラス)湖畔の戦いで活躍した高句麗の人、右羽林(うはりん)大将軍、高仙芝(こうせんし)であります」
「おお、密雲公(みつうんこう)か。手強いはずだ」
 安禄山が答えた。
「高仙芝大将、相手は巨漢ぞろいでめっぽう強い」
 官軍の兵士達があわて、おののいて言った。
「うろたえるな。北夷の賊が強いのではなく、我が方が弱いだけだ。賊は図体がでかいだけで頭は空だ」
 高仙芝は黒毛と白毛の混ざった駿馬にまたがり大声で叫んだ。
 しかし、高仙芝は楊国忠配下の宦官とそりが合わなく、彼の讒言(ざんげん)により味方によっておとしい陥れられ処刑された。

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 官軍の後任の大将に起用されたのは、これまた小数民族出身の名将哥舒翰(がじょうかん)であった。かって、李白の直訴を受け入れ、部下の郭子儀(かくしぎ)の死刑を無罪にした将軍である。東の節度使安禄山、西の節度使哥舒翰とうたわれた二大大将の一人であった。長安で年老いて病に伏していたが、玄宗は昔から信頼していた彼に潼関の最後の守りを託したのである。
「皇帝陛下のたっての頼みとあらば、やむを得ぬのう。ただし、条件がありますぞ」
「なんぞ、申して見ろ」
「我に二万の兵と、牛車十台にあふれんばかりの女と、もう十台に酒を所望いたす」
「ワハハハ。わかった。年甲斐もなくあいかわらず酒と女が好きであるのう」
「年甲斐もなくとはよく言うわ、天子様も人に言えた義理でもなかろう」
 哥舒翰は心の中でつぶやいた。長安を後にし、砦へとゆっくり行進した。
「天下の一大事だと言うのに哥舒翰のあのざまは何だ。皇帝に寵愛されていることをよいことに、調子に乗りやがって」
 宰相(さいしょう)楊国忠は頭にきた。もともと、二人は不仲であった。哥舒翰は横柄で、傍若無人な大将で、権力者であろうと楊国忠の如き小人にすり寄るような男ではなかった。しかし、皇帝の信望は厚く、部下にも信頼されていた。
「何と今度は、俺を成敗しにくるのは哥舒翰だと」
 安禄山が言った。
 かって、互いに名将として張り合った二人も仲が悪かった。
「敵は早春の山火事のようなものよ。メラメラと燃えだした火の勢いは、誰にも止められぬものよ」
 哥舒翰がうそぶいた。
「その通りですな。戦いは勢(いきお)いにもとめて、人にもとめずか」
 部下の武将郭子儀は、納得して腹の中で同意して言った。
「では、将軍いかにしましょうか。よい作戦はありますか」
 武将郭子儀が尋ねた。
「牛車二十台が我らの武器よ。酒を飲んで、女を抱いていろ。火が燃え尽きるまで時を待て。潼関の守りは天下の険、何百万人の大軍でも、俺と一万人の精兵がおればびくともしないわ。勝利は時を待つことだ」
 哥舒翰が答えた。
「攻撃や手柄をあせる部下の兵を押さえるのには、女と酒が一番だ」
 哥舒翰がニヤリと笑って付け加えた。
 彼自身も無類の女と酒好きであった。この作戦は最高に気に入って自画自賛した。名将哥舒翰は高仙芝同様、天然の要塞をしっかり守れば、そう易々と長安の都が陥落するとは考えていなかった。
「調子に乗って潼関を離れ、進軍し攻め込むことが敗北につながる。関(せき)の守りが長安を救う最後の道だ」
 
 酒と女に埋もれた名将は、おのれに酔っぱらって一人言い聞かせた。潼関における大戦は膠着(こうちゃく)状態が続いた。
 長安の楊国忠はいらいらしていた。玄宗に讒言(ざんげん)した。
「哥舒翰は毎晩女と酒に入り浸りで、全く進撃する気がありません。兵糧をもっと送ってこいと督促するばかりで、一向に攻める気配がないのです。二人とも胡人(こじん)ですから、安禄山と内通し共に長安を攻めに来るとの噂です」
「楊国忠、根も葉もないでたらめを言うでないぞ」
 楊国忠は不安で、いても立ってもいられなかった。
「お恐れながら、それでは、直ちに敵陣を攻撃せよと、私から命令を出しましょう。単なる噂でやましい心がなければ、攻め込むはずです」
「分かった。好きなようにしろ」
「何、すぐに敵陣に攻撃せよだと。誰が俺にそんなばかな命令してきたのか」
「楊国忠宰相殿です」
「戦のいの字も知らぬ愚かな宰相よ。勢いに乗る二十万の敵軍に、二万の我が軍が潼関を出て勝てると思うのか。ばか者が」
 伝令の兵が長安に戻り、楊国忠に報告した。
「お恐れながら、哥舒翰将軍殿は宰相殿の命令書を無視して、破り捨てました」
「皇帝、やはり、哥舒翰は寝返りました。胡人は安禄山同様信頼出来ませんぞ。今度は帝の勅書(ちょくしょ)を出してみましょう」
 玄宗皇帝も若かりし頃の感の鋭さがなくなっていた。信頼していた安禄山に裏切られたこともあり、軽率にも戦を知らない楊国忠に踊らされ、勅書に署名してしまった。玄宗はすでに七十歳を越え、戦争を忘れ、気力も薄れていた。
「戦いの利は潼関の守りあるのみ。出ずればこれ敵の思うつぼ」
 と、哥舒翰は玄宗に訴えたが楊国忠に全て握りつぶされた。
 これが長安を滅ぼされ、玄宗が都落ちし、馬嵬(ばかい)の悲劇の原因となった。
「楊国忠の罠にはまったが勅書には従わざるを得ないだろう。天子も歳と女には勝てんのう。楊国忠も、有能な将軍を片っ端から失脚させ、どうするつもりだ。自分で自分の首を絞めているようなもんだ。愚か者よ」
 歯ぎしりして言った。
「俺が死んだら、長安にまともな将軍は誰も残らないぞ。楊国忠と楊貴妃とその三人姉妹で、長安を守れるとでも思っているのか」
 哥舒翰は吐き捨てるようにつぶやいた。
「俺の好きな戦と酒と女が同時にやって来たわい。明日は砦を出て敵陣に総攻撃をかける。今夜は女を抱いて酒を好きなだけ飲め。俺は病人、どのみち先は短いが、これで大唐国も終わりだ。残念なことよ。お前は長安に戻れ。犬死にすることはない。若いのだ皇帝を助け、再起を計れ」
 有能な武将郭子儀にのみ本音を語った。彼は後に皇太子(後の粛宗(しゅくそう))を助け、再起を計り、長安奪回に成功したのである。
 「これより出陣するが、百に一つも勝ち目がない。お前に千の精兵を与える。ただちに長安に戻れ」
「大将も一緒に長安に戻りましょう」
「俺が舞い戻ったら、楊国忠が喜んで逆賊呼ばわりするだけだわ。長安に即座に戻り、機を見て楊国忠を誅殺(ちゅうさつ)しろ。あいつを生かしておけば唐国が崩壊する。敵は内にいる、これが俺の最後の命令だ」

 二万の大軍は北に大河を見下ろし、南に華山(かざん)を望み、長い縦列をつくって天然の要塞を離れて東に進軍した。陣太鼓が山々に響きわたり、朗々(ろうろう)とこだました。戦いの笛の音が大河の流れにヒュウヒュウと共鳴した。馬上の琵琶の音は、天空にベンベンと昇っていった。それは熱い夏の日であった。敵将安録山はあざ笑って言った。
「天下の名将もしれたもの。しびれを切らして、軽々しく出てきおったわ」
「一気に攻めますか」
「まだ、攻めるな、引け、逃げろ。できるだけ敵を砦から引き出せ、おびき出せ」
 敵の主力はわざと後方の谷へ下がっていた。砦を抜けて進軍した哥舒翰の全軍は攻め込んだが、四辺(しへん)に隠れていた敵の伏兵十五万の大軍に取り囲まれ、味方の軍はあっという間に退路を断たれ、包囲された。
「走れ、走れ、真っ直ぐ前方、東に向かって、矢のごとく突き進め」
 老大将は声を振り絞って全軍に命令し、陣太鼓を鳴らした。
「戦うな、隊列を崩さず、脇目もくれず、全速力で真っ直ぐ疾走しろ。敵軍を抜いて逃げ切れ。三十六計逃げるが勝ちだ」
 軍馬は縦列に砂煙を上げまっしぐらに走った。哥舒翰は負け戦などするつもりはサラサラなかった。兵隊を一人でも多く逃がすことを考えていた。十五万の敵兵に包囲され、全滅する負け戦と予想されたにもかかわらず、殺された部下の少なさからその名将ぶりが後世に称(たた)えられた。大将哥舒翰は自ら、しんがりをつとめ敵兵につかまった。七五六年(日本 天平勝宝八年)六月九日のことであった。
「哥舒翰。わかったか。俺が天下一の武将よ。俺に勝てるとでも思っていたのか」
 安禄山(あんろくざん)は得意げに鼻の穴を膨らませながら、大きな腹を抱えて言った。
「俺は天下一の負け将軍よ。わざわざ負けてやったことも知らずに、この愚か者が」
 哥舒翰は冷静にニヤリと笑い、吐き捨てるように言った。
「同族のよしみだ。俺の方が強いことを認め、俺の部下になるので助けてくれと、皆の前で土下座すれば、助けてやってもよいぞ」
 安禄山は笑って言った。
「酒と女も十分味わせてもらったわ。今更、生き延びてなんになる」
 哥舒翰は笑って言った。
 西域人の哥舒翰は西域人の安禄山によって処刑された。長安城が陥落したのはそれから八日後の六月十七日のことであった。
posted by いきがいcc at 17:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 31.楊貴妃は生きていた