2011年11月24日

連載(20)

IMG_2105_1_1.jpg  (連載20)

「あ、あのお方は誰ですか」
 と、楊貴妃は背の高い壮年の一人の高級官僚を指さして、玄宗皇帝に尋ねた。
 驚愕(きょうがく)を顔に出すことを懸命に抑えた。しかし、楊貴妃は胸がドキドキと高鳴り、平生を装うことに苦労した。身体が熱く燃えた。 
「あの時の蓬莱(ほうらい)の人だわ。逢えてうれしい」
 心の中でつぶやいた。今まで、ゆっくりと揺れていた白檀(びゃくだん)の扇子が乱れた。
「あれは日本人の朝衡(ちょうこう)(阿倍仲麻呂)だよ。かっての探花郎(たんかろう)(科挙合格の優等生)よ。いい男だ」
 玄宗皇帝が答えた。
「朝衡様、初めてお目に掛かります。ごあいさつしてもよろしいでしょうか」
「わかった。朝衡を呼んで参れ」
 玄宗皇帝は側近に命令した。
「朝衡様の名は、噂で聞いて知っていたわ、しかし、あの蓬莱の人がその人とは、夢にも思っていなかったわ」
 楊貴妃は心の乱れを隠した。
 朝衡は若い僧侶を伴って玄宗皇帝と楊貴妃の前に現れた。
「朝衡、これが楊貴妃だ。よろしく頼むぞ」
 と、天子は得意げに紹介した。
「楊貴妃様ですか・・・ああ・・・。楊貴妃様、私は朝衡。お目に掛かり光栄でございます」
 仲麻呂は驚きのあまり声が上ずってしまった。
「朝衡、どうした」
 と、玄宗皇帝が言った。
「あまりにもお美しいので・・・」
「そうだろう、そうだろう」
 と、皇帝が満足げに答えた。
「今後ともよろしくお見知りおきのほどお願い申し上げます」
「妾(わらわ)こそよしなに」
 百鳥毛裙(ひゃくちょうもうくん)(鳥の羽と動物の毛皮で作った衣装)の豪華な衣裳を身にまとい、多くの侍女を後ろに侍らし、天子の脇の玉座に悠然と座している女王に圧倒された。
「天子様、噂にも勝る絶世の美人でございますね」
ようやく落ち着きを取り戻して、阿倍仲麻呂は深く楊貴妃に頭を下げた。
「あの時の、あの女が、まさか、楊貴妃だとは思いもよらなんだ」
 と、心の中でつぶやいた。
「よりにもよって、天子様の貴妃とは」
 楊貴妃もたいそう驚いたが、顔には出さなかった。
「あの人が噂さに名高い朝衡さまとは」
 仲麻呂は心の動揺を一生懸命抑えたが、一瞬、真っ暗になった。阿環(あかん)が何か自分から遠く離れた別世界に行ってしまった想いにかられた。空しさにおそわれた。
「朝衡様は蓬莱の人ですか?」
 鳳凰(ほうおう)と宝珠(ほうしゅ)に飾られた黒檀の玉座に坐っていた楊貴妃は、微笑んで、おうように言った。髪に挿している金歩揺(きんほよう)(歩くと揺れる髪飾り)が微かに揺れ、きらりと光った。
「はい。我は蓬莱の人です」
「お供の方はどなたですの」
「我が沙門(しゃもん)(仏門)の師、大唐国の若き高僧、思託(したく)殿です」
「いえ、まだ若輩の修行僧、思託です。どうぞよろしくお見知りおきを」
「高僧思託様。仏の道とは何ですか。教えて下さい」
 楊貴妃は率直にいきなり尋ねた。
「いや、高僧とはとんでもございません・・・」
 思託は天子の御前で、楊貴妃の突然の問いに、冷や汗をかきながらも回答した。
「お恐れながら、仏の道とは―苦にしないこと―です」
 楊貴妃がさらに尋ねた。
「―苦にしないこと―とは、どういうことですか?」
「思うがままにならないことを、思うがままにしようとしないことです」
「そんなこと、出来るかしら」
「あるがままに生きることです」
「あるがままに・・・」
「そうでございます。あるがままに・・・。それが無の境地、悟りです」
「かなわぬ恋は如何に・・・」
 楊貴妃は美しい瞳で朝衡を一瞥して、微笑みながら僧思託に尋ねた。
「・・・天のみぞ知る」
 思託は楊貴妃の難問に苦し紛れに答えた。若き僧は楊貴妃の妖しい美貌に激しく心乱れてしまった。 
「いくら修行したところで、所詮、無駄なことだ」
 思託は心のなかで、嘆いた。

 科挙合格の祝賀の宴を思い出し、仲麻呂は沈香亭の庭に咲き乱れる牡丹の中から純白の大輪を一枝手折って楊貴妃に捧げた。
 いつの間にか近くに来ていた楊国忠(ようこくちゅう)がしたり顔で言った。
「牡丹は紅が一番」
 楊国忠は楊貴妃の甥で楊貴妃を利用して、権力の中枢に昇りつつあった。仲麻呂が皇帝や楊貴妃に寵愛されていることに心穏やかではなかった。
「俗は紅、雅(みやび)は白、牡丹は白 李(すもも)は白」
 酔いが残っている李白が大笑いしながら言い返した。
「古より高貴なる牡丹は紅ですぞ」
 むきになって楊国忠が言った。

 李白が牡丹になぞらえ楊貴妃の美貌を称えた『清平調詞』を詠いあげた。

 雲には衣裳を想い(白雲を見れば楊貴妃の美しい衣(ころも)を思い浮かべる)
 花には容(かたち)を想う(白牡丹を見れば楊貴妃の美しい顔(かんばせ)が目に浮かぶ)

「楊貴妃様、朝衡様とは前からのお知り合いですか?」
「いいえ、どうして?」
「あまりにも、親しげに見えたので」
 楊国忠はかすかに嘲笑をうかべて言った。

 未だ、若い茶人の陸羽(りくう)がお茶を煎じた。皇室でも当時お茶を飲むことが流行っていた。
「陸羽殿、天子様と楊貴妃様に今年の最高のお茶を差し上げて下さい」
 仲麻呂が友人の陸羽に頼んだ。
「これはいずこで採れた茶か。まろやかなよい味だ」
 玄宗皇帝が一服して尋ねた。
「今年の清明節(せいめいせつ)の前に、杭州(こうしゅう)で摘んだばかりの一番茶です。朝霧が消え雲一つない晴天の日の朝、陽の当たる山腹で摘んだ一芯一葉(いっしんいちよう)(枝の先の若い芯とその下の若葉)です」
「香りが素晴らしいわ。銘柄は何というのですか」
今度は、楊貴妃が聞いた。
「湖州紫笋(こしゅうしじゅん)です。芽は紫が一番、形は笋(たけのこ)が一番。天下一の銘茶です」
「水は」
「水は揚子江(ようすこう)の南零水(なんれいすい)」
「南零水とは」
「揚子江の河岸の水は淀んで止まっており腐っています。一方、河の真ん中の水は、水と水とがぶつかり合って濁っています。そのため、河岸と河の真ん中の間を流れている南零の水が柔らかく一番です」
 一杯飲むと芳醇(ほうじゅん)な香りが口の中にふわーっと広まった。
「妾(わらわ)はこの茶が大好きよ」

 金色の二頭の龍が大空に飛躍している壁画が、沈香亭の壁いっぱいに描かれていた。
「これは、何とすばらしい絵ですね。今にも、飛び出てくるような気迫を感じますね」
 絵にもたしなみのある王維(おうい)が批評した。
「誰の絵でございますか」
「巨匠,呉道玄(ごどうげん)の力作よ」
 天子が答えた。
「さすがですね」

 部屋の奥に陶器が飾られていた。器を指して言った。
「奥に飾られている器を見せていただいてよろしいですか」
 招かれていた文化人の一人顔真卿(がんしんけい)が伺いをたてた。
「よいぞ」
 と、天子が言った。
 顔真卿は中国の書道の大家としてよく知られていた。芸術と文学に優れた士大夫(しだいふ)の一家の生まれであった。彼の楷書は「蚕頭燕尾(さんとうえんび)」と言われた。横、縦と筆の初めの入りがまず筆を抑え、後は軽く尖(とがる)るように引く、これが蚕(かいこ)の頭に似ている。筆の最後の出は、筆先が少しバラバラと枝分かれしており勢いがある。これが燕の尾に似ている。筆跡は横の線は軽やかに、縦の線は力強く「姿勢飛動(しせいひどう)」と賞賛された。
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「これはすごい逸品ですね」
「よろしい。ほほ、わかるか顔真卿、おまえは唐代一の書家とは知っておったが、器の眼力もあるとは恐れ入った」
 と、天子が褒めた。
「おお、これは秘色(ひそく)の碗(わん)だ」
 阿倍仲麻呂が思わず叫んだ。それを聞いて皆が奥へと集まってきた。
「朝衡、なぜわかる。これは更に驚いたわい。お前は大したやつだ」
「おお、やはり秘色の碗」
 仲麻呂はびっくりした。三十数年前の少年時代の感動を呼び戻しながらジッと見つめた。
「我が家の家宝と同じだ。これの方が一回り大きいが」
 心の中でつぶやいた。
「秘色の碗とはなんですか」
 僧思託(したく)が小声で仲麻呂に尋ねた。
「唐王朝に代々つたわる皇室の秘宝の器だ」
 薄暗い部屋の奥のそこだけがボーッと明るく輝いていた。
「秘色の碗はそろいの二碗のはずではなかったですか」
 顔真卿が尋ねた。
「よくご存じですね。秘色の碗はもともと対の二個だったのですよ」
 楊貴妃が答えた。
「唐王朝建国の高祖(こうそ)の時代から、皇帝と皇后に受け継がれてきた唐皇室に伝わる最高の秘宝だ」
 天子が答えた。
「天子様、私にはいただけないのですか」
 楊貴妃が笑いながら言った。
「皇帝と皇后が即位したときの証として秘色の二碗が授けられてきた。しかし、朕の時にはどういう訳か一碗しかなかったな。楊貴妃、お前にも授けたかったが、一個しかなかったわい」
 天子は笑って、楊貴妃に言った。
「高宗(こうそう)と王皇后の時までは、二碗揃っていたと聞いていますわ。則天武后(そくてんぶこう)が王皇后を処刑した。そして、王皇后の局(つぼね)をくまなく探したが、秘色の碗を探し出すことが出来なかったと」
 楊貴妃が言った。
「盗まれたのか、砕かれたのか、誰かに与えたのか、王皇后が亡くなってしまった今、誰もその行方を知らない」
 楊貴妃は詳しかった。
「ああ、それで、人呼んで幻の碗と・・・」
 顔真卿が納得して言った。
「幻の碗を探し出せたら、その時は、楊貴妃、愛の証に必ずそなたに授けようぞ」
「天子様。本当ですね。うれしいわ」
 楊貴妃は真顔で喜んだ。秘色の碗を所有していることが皇后の証であった。
 阿倍仲麻呂は黙って聞いていた。
「あれがそうか。何と言う運命の巡り合わせだ。我はその行方を知っている」
 心でつぶやき、遠き少年の日々を想い出していた。
 僧思託は碗をじっと見つめながらしばらく手を合わせた。
posted by いきがいcc at 10:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 20.酒中の仙 李白