2011年11月19日

連載(17)

IMG_2055_1.jpg  (連載17)

         7.七年間の漂流の旅


 七三二年(日本 天平四年)朝廷は、十五年ぶりに遣唐使派遣を決定した。総勢五百九十四人、四艘と前回同様の大船団であった。
   
 大使:多治比真人広成(たじひのひろなり) 従四位上
 副使:中臣朝臣名代(なかおみのあそんなしろ) 従五位下
 判官:平群朝臣広成(へぐりのあそんひろなり) 正六位上 七三七年外従五位下に昇進
   :秦忌寸朝元(はたのいみきちょうげん) 通司外従五位下(僧弁正の子)
  :紀馬主(きのうまぬし) 
:大伴古麻呂(おおとものこまろ)(大伴山守の子)
留学僧:栄叡(ようえい)、   
   :普照(ふしょう) 

 翌年四月、遣唐使は難波津を出航し、九州太宰府(だざいふ)に寄港し、五島列島を最後に、東シナ海を一気に横断し中国大陸揚州(ようしゅう)を目指した。 

「俺達は生きている」
 平群広成は海に向かって叫んだ。
 青嵐(せいらん)の風が大地の果てから大海の果てに流れていた。風は広成の高く掲げた手の指の間を流れていく。二十八歳の広成は、遣唐使判官(ほうがん)として今甲板の上に立っている。邪魔をするものも無ければ、助けてくれるものも無かった。
 彼は五尺八寸以上の背丈があった。やせ気味に見えるが、骨太なたくましい肢体が、風にはためく衣服から透けて見えた。髪の毛は大きく縮れており、潮風に吹かれて丸く額にまつわりついていた。その精悍な顔に似合わず色白であった。
「古麻呂(こまろ)、栄叡(ようえい)、普照(ふしょう) 大唐国が見えたぞ。早く上がってこい」
 と、広成は大声で叫んだ。大伴古麻呂と普照がドサドサ音を立てて上がってきた。皆二十代の若者であった。
「おお。広成殿。生きて着きましたね」
 と、太い眉毛をした古麻呂は真剣な顔で、前方に広がる美しい中国大陸を見据えたまま言った。
 普照は五分刈りほどに伸びた坊主頭を揺らしながら、慌てて船底に下りていった。嵐のため船酔いで食欲もなく寝たきりの大きな体の栄叡を抱きかかえ、普照は息を弾ませながらまた上がってきた。
「おお、あれが大唐国か、死んでたまるか」
 と、栄叡が大声で、腹の底からおのれに言い聞かせた。
「ああ、感無量だな」
 と、普照が答えた。皆、元気になった。
 栄叡と普照は長期留学僧として、今回の遣唐使に抜擢されてきたのだ。栄叡は美濃国の出、普照は信濃国の出、ともに興福寺で修行を積んだ、有能で将来を嘱望された二十一と二十歳の青年僧であった。二人の留学僧はおのれ自身仏教を学ぶと同時に、舎人親王(とねりしんのう)から直に課せられていた。
「ご両人。唐から仏教の戒律(かいりつ)を教えることのできる中国の高僧をなんとか日本に招聘(しょうへい)するように頼みます」
「親王様。かしこまりました」
 当時、僧尼になると過酷な税を免除されるため、多くの民が我も我もと仏門に走り大きな社会問題になっていた。僧尼になることを認めるためには、正式な仏教の戒律を受けさせることが急務とされた。
 大伴古麻呂は昔から皇室に武人として仕えてきた、由緒ある大伴一族の出であった。前回の阿倍安麻呂に代わって遣唐大使を務めた大伴山守(おおとものやまもり)の息子であった。歌人として有名な大伴旅人(おおとものたびと)は叔父さんで、大伴家持(おおとものやかもち)とは従兄同士であった。古麻呂は同じ大伴家ながら、歌には興味もなく不得意であったが、弱冠二十三歳の有能な青年武将であった。
「大伴家は歌人(うたびと)の一族ではない、もともと武人の一族である。私は武人として名を立てたい」
 もう一人の判官(ほうがん)、秦朝元(はたちょうげん)は僧弁正(べんしょう)の子で日中の混血児であった。弁正は前々回,山上億良(やまのえのおくら)と共に、遣唐使として唐に渡り、中国人女性と結ばれ二人の子朝慶(ちょうけい)と朝元をもうけた。弁正は俗名、秦氏(はたし)でもともと渡来人(とらいじん)であった。朝元は十一歳まで中国に両親と暮らしていたが、前回の遣唐使の帰り船に乗り、家族と別れ一人日本へ渡ったのだ。日本で立派に成長し、今回、通詞(つうじ)として両親のいる母国、大唐国にやってきた。
「やあ、十六年振りに美しい故国の地を無事踏むことが出来た。父、母と兄に逢えるかと思うと本当にうれしい」
 若かくして遣唐使判官に抜擢された二十七歳の秦朝元は、胸を張って故郷、中国大陸を見渡した。
 真夏の太陽はすでに遣唐使船の真上に昇っていた。揚子江(ようすこう)の河口に入ると蘇州(そしゅう)の港がだんだん大きく、はっきりと見えてきた。使節団は全員甲板にあがり、初めて目の辺りにする緑の大地、大唐国を食い入るように見ていた。港には大小のたくさんの船が停泊していた。

 白村江(はくすきえ)の戦い(六六三年)で百済(くだら)が滅亡した後、百済の武将一族七百余人と共に、平群広成(へぐりひろなり)の祖父は日本に亡命し、滋賀県蒲生郡(がもうぐん)に住みついた。日本女性と結婚し帰化したが、その後、平群一族は奈良生駒山(いこまやま)の東側に移り住んだ。その地は「平群の里」と呼ばれ広成はここで生まれた。彼の先祖はもともと百済の人ではなく、高句麗の北のはずれ、今の中国東北部黒竜江(こくりゅうこう)流域に住んでいた、狩猟民族、黒水靺鞨(こくすいまっかつ)(ツングース族)の血を受け継いでいた。
「おれの体の四分一は中国、北の大地のはずれ、狩猟民族の血が脈々と流れているのだ」
 と、彼は得意げに言った。
 彼がその後の波瀾万丈の人生をしぶとく生き抜くことが出来たのは、多くの遠い民族のよい血が混じり合った、頑強な肉体と強靱な精神を与えられたことに寄るところが大きかったのである。
 この時、前回の留学生阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)、吉備真備(きびのまきび)、僧玄ム(そうげんぼう)が唐にいた。仲麻呂三十三歳、真備三十九歳、玄ム三十七歳であった。仲麻呂はすでに従七品上の位階を授かり、玄宗皇帝の左補闕(さほけつ)、すなわち皇帝に過ちがあれば率直に戒める側近であった。
「左補闕とは・・・唐には素晴らしい職がある。権力の座に長く居座っているとどんな立派な皇帝であっても、必ず過ちを犯すものだ。その過ちを誡める官職とは優れた発想だ」
 と、阿倍仲麻呂は感心した。

 仲麻呂はその翌年、七三四年(日本 天平六年)魏王友(ぎおうのゆう)(玄宗皇帝の息子、皇子の補佐)となり従五品上に早くも昇進し、大出世した。

 遣唐使一行が蘇州に漂着したことを蘇州刺史(そしゅうしし)はただちに長安に伝えた。玄宗はこの知らせを受けるやすぐに使者を送り、一行を長安まで案内させた。
 多治比広成(たじひのひろなり)大使以下は、玄宗に謁見し、美濃と水織(みずおり)のあしぎぬ二百匹等を献じ、天子より温かい歓迎を受けた。大明宮(たいめいきゅう)の麟徳殿(りんとくでん)の大広間で百官の高級官僚が出席し、壮大な歓迎の宴を開いた。玄宗皇帝以下、張九齢宰相(ちょうきゅうれいさいしょう)、宦官高力士(かんがんこうりきし)将軍、後宮武恵妃(ぶけいひ)、梅妃(ばいひ)などが参加していた。前回の留学生、仲麻呂、真備、玄ム達も招かれていた。
「朝衡(ちょうこう)(仲麻呂の中国名)、貴殿が唐にこられたのは何時だったかのう。日本からの朝貢(ちょうこう)はあれ以来だな」
 玄宗皇帝は思いだすように尋ねた。
「あれは開元五年(七一七年)ですので、十六年前のことでございます」
 朝衡が答えた。
「そうか、朕(ちん)が即位してからまだ五年後であったか。では朕が三十二歳の時、若かったの。朝衡、貴殿も確か若かった。まだ十代であったろう」
「ええ、十七歳の春でした」
「お互いに歳を取ったなあ。ところで、弁正の子はどこにいるのか、探して参れ」
 玄宗皇帝は側近の宦官高力士(かんがんこうりきし)に言った。
「やあ。貴殿が秦朝元(はたちょうげん)か。大きくなったのう。貴殿の父親弁正とは、朕が郡王の頃からの囲碁友達であったわい。坊主のくせに経典より囲碁とおなごが好きなやつだった。囲碁の腕は相当のもので、わしも強い方だが更に強かった。朕に対していつも真剣勝負で、手を抜いて負けることはなかった。いい男だった」
 玄宗は昔を懐かしむようにして、また話し続けた。
「朝元覚えているか、碁盤の回りを兄弟二人で走り回っておった。あれは四、五歳の頃であろう。朕が負けそうな時、貴殿はよく碁盤をひっくり返して、引き分けにしてくれたもんだ。礼を言うぞ」
 天子は笑いながら朝元に話しかけた。
「覚えています。失礼の数々、何とも恐れ多いことです」
 阿倍仲麻呂も感慨深げに言った。
「見送った時はまだ子供だったのに、立派に成長されたな・・・。月日が経つのが本当に早く感じる」
 秦朝元は大唐国の天子の御前で、冷や汗をかき恐縮するばかりであったが、言葉は流暢な中国語であった。天子は孤独になった青年を笑わせ、元気付け、褒美を与えた。朝元は家族と別れ十六年振りに故国に還って来た。しかし、父、母、兄の三人ともすでに他界していた。二年前、流行の疫病で三人とも同時に亡くなってしまっていた。
「ほんとうに、三人とも逝ってしまったとは」
 秦朝元は兄から貰った真っ赤な平らたい石を力いっぱい握りしめて、嘆き悲しんだ。秦朝元は天涯孤独の混血児となってしまった。その後、日本に帰国し、図書頭(ずしょのかみ)に任官し、後に主計頭(かずえのかみ)に昇進した。
posted by いきがいcc at 21:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 17.七年間の漂流の旅