2011年11月17日

連載(15)

IMG_2067_1_1.jpg  (連載15)

科挙は難関を極め、二十歳代で合格すれば天才中の天才であった。あの白居易(はくきょい)(白楽天)が進士(しんし)に合格したのは二十八歳であったが、その時の合格者は十七人で、自分が一番若かったと「雁塔の題名(がんとうのだいめい)」(壁の落書)に得意げに書き記した。
 進士に合格するため一生を掛けた人も少なくなかった。毎年毎年、試験勉強に明け暮れ、紅顔の美少年も十年、二十年と歳月が流れ、やっと念願の進士に合格した時には、すでに白髪の五十、六十の老人になっていたと言うのも普通のことであった。
高級官僚の娘達にとって進士は、婿としてのあこがれの的であった。ある時、若い綺麗な娘が進士に及第した老人の進士に尋ねた。老人は自嘲気味に、
「五十年前は、二十三の美少年よ」
 と、答えた。 
 まだ、年老いても進士に及第すれば、子供、一家、一族にとっては、大変名誉のことで救われたが、合格することなしに人生を虚しく棒に振った人達もたくさんいた。
 首席合格者を「状元(じょうげん)」と呼び、最年少で合格し、かつ容姿端麗な進士は「探花郎(たんかろう)」と呼ばれた。

 阿倍仲麻呂が進士に合格したのは、唐国に留学し、国子監(こくしかん)で四年勉強後の二十一歳の春であった。唐の偉大なる詩人王維(おうい)は科挙合格の同期生で、年も一緒であった。それ以来、二人は青春を語り合った無二の朋になった。
 科挙を及第した新しい進士達は、揃って試験官の宅を訪れ、礼を述べた。そして、試験官は皆を連れ宰相(さいしょう)の家を訪問し、進士を紹介した。その後、長安城の東南にある「曲江(きょくこう)」の苑(その)で祝賀の宴が開かれた。、百官の高級官僚や女官やその家族も参加し、春爛漫の恒例の大宴会で、高級官僚の娘達も着飾りたくさん参加した。婿選びを兼ねた上流貴族達の社交の場でもあり、皇帝自らも近くの「紫雲楼(しうんろう)」に出御(しゅつぎょ)し進士達の前途を祝した。

「日本の青年が、探花郎(たんかろう)になったんだって」
 長安の娘達はさすがに驚き、巷はこの話で持ちきりであった。
「朝衡(ちょうこう)(阿倍仲麻呂の中国名)は本当に日本人なのか」
「美無度(びなんど(美男子))との噂だけれど,ほんとかしら一度見てみたいわ」
「名前の通り、探花郎は長安城の中を歩き回り、最も美しい大輪(たいりん)の牡丹の花を探しあて、進士及第を祝う曲江(きょくこう)の宴にて、皆に花を披露する慣わしになっているのだ」
 と、先輩の進士合格者が教えてくれた。
「宴(うたげ)の終わりに、進士達は自分の気に入った女に、自分が手折ってきた一輪の牡丹をあげるのだ、楽しみであろう」
 それが縁で結ばれることもあったという。
「ただし、探花郎に選ばれた者は、他の進士たちより一番美しい牡丹を探してこなければならないのだ。もし他の進士が探花郎より美しい花を持っていたら、探花郎は罰せられる慣わしだ」
 他の先輩が教えてくれた。
「罰せられるとは」
 仲麻呂が尋ねた。
「進士及第者全員に対して、葡萄酒の杯を返さなければならないのだ」
 もと進士合格の宰相が皇帝に尋ねた。
「今年の探花郎は王維(おうい)と朝衡(ちょうこう)です。朝衡は日本人ですがいかが致しましょうか」
 合格するまで日本人だとわからなかったような口振りであった。
「日本人であろうと、何人であろうと、権威ある進士に難関を突破し及第した者は、唐国の官吏として大切に登用せよ。漢人にとっても難解中の難解の進士に、外国人が探花郎で合格するとは驚いたものだ。どんな男か見たいものだ」
 三十七歳の壮年玄宗皇帝は、即座に言った。さすが大唐国の皇帝、民族、国家を問わない判断であった。
玄宗は仲麻呂初めて見て言った。
「おお、まさに天庭飽満(てんていほうまん)、地角方圓(ちかくほうえん)の相だ」
 ひたい額は広く、あごは丸い、聖人の相があると賞賛したのである。

「仲麻呂、私は酒が強くありません。一番美しい牡丹の花を披露することが出来なかったらどうしよう」
 初々しい王維(おうい)が心配して言った。
「もしそうなったら、私が半分を引き受けます」
 ろくすっぽ酒など飲んだこともない、これまた初々しい青年仲麻呂が平気で答えた。
「あなたは誰に牡丹の花をあげるのですか。もう心に決めている女性はいるのですか。私はわからない。誰にあげるか戸惑います。あまり、うろうろして、じろじろ見ても格好悪いし、どうしたらいいだろう」
 多少、神経質性の天才文学青年が言った。
「そうだ、よい考えが浮かんだ。一輪といわずそれぞれ九輪(くりん)の花を携えていこうぞ」
「仲麻呂、それはよい考えだが、一人一輪が今までの慣わしですよ」
「じゃあ、今年から慣わしを変えてみよう。面白いじゃないか」
「わかった。気に入った女人には皆花を渡そう」
「王維、牡丹の花を人妻に上げてもよいのか知っていますか」
「聞いたことがい。人妻かどうかはどうやって見分けるんだろう」
 二人の天才青年はたわいのない話をして楽しそうであった。

 宴が終わると、進士達は一同揃って、まず曲江(きょうこう)の北にある慈恩寺(じおんじ)へと繰り出した。そこには、三蔵法師(さんぞうほうし)(玄奘)がインドから持ち帰った経典を保管するために建立された、あの有名な大雁塔(だいがんとう)が聳え立っていた。塔に登って長安の街を見下ろし、お互いの前途を祝し合った。そしておのれの名前を塔の石の壁に刻んだ。その昔、合格した進士がうれしさのあまり、大雁塔の壁に名前を記念に書き記(しる)し、それ以来慣わしとなったと言われている。
 引き続き、探花郎を初めとして、みんなが持ち寄った美しい牡丹の花の出処を見て回った。最後に長安の花街、平康坊(へいこうぼう)の狭斜(きょうしゃ)(路地、横丁)に繰り出し、舞姫と一夜も共にした。

 仲麻呂は四年で日本人留学生としての勉強は終えて、科挙に合格し、唐国の官吏として登用された。最初の仕事は洛陽(らくよう)の左春房司経局(さしゅんぼうしきょうきょく)の校書(こうしょ)で、正九品下という低い官位からのスタートであった。時に、阿倍仲麻呂二十一歳であった。左春房とは皇太子の役所で、皇太子の図書、文書係(校書)を務め、主に公文書の校正等をする仕事であった。

 詩人・白居易(白楽天(はくらくてん))の長恨歌(ちょうごんか)の冒頭に「漢皇(かんこう)、色を重んじ傾国(けいこく)を思う」(漢皇とは古の漢の武帝(ぶてい)を指し、直接玄宗と詠うのは畏れ多いので憚(はばか)ってである。傾国とは美人のこと)と詠われているように、古今東西英雄は色を好むものである。
 玄宗には五十九人の子がいて、その母親は十七人であった。しかし、玄宗が心の底から愛した女性は武恵妃(ぶけいひ)、梅妃(ばいひ)と楊貴妃(ようきひ)の三人だけで、三千人の後宮にはほとんど目もくれなかった。三十人の王子と二十九人の親王がおり、孫は百人以上いた。三十人の王子の内、七人が幼少のころ亡くなっている。その主だった王子たちは長安北東の隅に住んでいたが、この一画だけは坊といわず、最初は「十王宅(じゅうおうたく)」と呼ばれていたが、王子が増え十六人の王子が住むようになり「十六宅(じゅうろくたく)」と呼ばれるようになったのだ。
posted by いきがいcc at 11:25| Comment(1) | TrackBack(0) | 15.阿倍仲麻呂と楊貴妃の出逢い