2011年11月16日

連携(14)

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連載 (14)

        6.阿倍仲麻呂と楊貴妃の出逢い


 大型新造船のためか、今回の遣唐使は、めずらしく四隻とも無事中国揚州(ようしゅう)の港に漂着した。一行は揚州から運河を通り、船で洛陽(らくよう)まで行き、洛陽から長安(ちょうあん)まで陸路を馬でいった。遣唐使一行が長安に到着したのは七一七年(日本 養老元年)晩秋のことであった。
 秋の空は深く、雄大であった。秋風に欅(けやき)の落ち葉がカサカサと舞い上がり、吹き溜まりにうずたかく重なり、蓬(ほう)の枯れ木が大地を東に西に転がり回っていた。ほうきのような桑畑を抜けると、南北に黄色みがかった茶色の城壁が延々とつながり、その向こうには赤い宮殿の柱が亭亭(ていてい)と聳えていた。寺の黒い甍(いらか)が累々(るいるい)と幾重にも光り、レンガ色の西域様式の塔が天空を突き刺すように伸びていた。城壁は高さ、幅共に十二メートルほどもあり、壁というよりも高殿(たかどの)であった。
 城内に近づくと旅籠(はたご)、食堂、商店が建ち並び、ろば、馬、駱駝,象、牛車が行き交い、子供、女、西域人、軍人、官僚、坊主、旅人、舞姫など人々でごったがえしていた。
 青い春明門(しゅんめいもん)は、連なる城壁より一段と高く二層の楼閣を築いていた。門の幅は二十五メートルほどもあり、百人以上の金吾衛(きんごえ)の兵士達が警備していた。長安城は、東西十キロ、南北八キロもあり、平城京の三、四倍、百万人が住む、当時世界一の大都市であった。
「全てが大きい」
 辺りを見上げながら、馬上の仲麻呂はつぶやいた。
「あれが駱駝か。でかいなあ」
 真備(まきび)が見上げながら叫んだ。髭もじゃで、先の曲がった白い帽子を、いきにかぶった白い服の深目高鼻の西域人が乗っていた。
「青い目の女がいる。あれはどこの国の女だ」
 僧玄ム(そうげんぼう)が見とれる先に、胸を露(あら)わに、うすぎぬの肩掛けを風になびかせた金髪碧眼(きんぱつへきがん)の胡人(こじん)の舞姫が闊歩していた。遣唐使一行は日本国とのあまりの違いに、目を白黒させ、周りをきょろきょろ見ながら春明門をくぐった。日本では女人が肌を露わにすることなどあり得ないことであった。
 春明門は長安城の東の城壁にあるメインゲイトであった。門をくぐると真っ直ぐ正面に、つまり東から西へと大路(おおじ)が続いていた。道と言うよりも広場であった。大路の両側には槐(えんじゅ)や楡(にれ)の大木が緑の影を落としていた。木の根本には小川が流れていた。街路樹の後ろは土塀が連なっていた。その高さは外壁に比べれば低いが、三メートル以上はあった。つまり城内も区画毎に壁で囲まれていた。
 門をくぐったすぐ北側の土塀の向こうには、真新しい彩色豊かな宮殿が広がっていた。三年前、玄宗皇帝により建設されたばかりの絢爛豪華な「興慶宮(こうけいきゅう)」があった。
 宮殿を通り過ぎた南側には、市場があった。長安にはこの東市と西市の二つの市があり、市場もまた土塀で囲まれていた。羊の肉を焼く匂いがムンムンとただよい、鶏がかごのなかでパタパタと羽ばたいていた。東市をぬけて更に真っ直ぐ行くと、南北を貫く大路に出た。右手、北方に皇城、宮城の宮殿がまた城壁に囲まれ立ち並んでいた。
「これが朱雀大街(すざくたいがい)か」
その道幅の大きさに遣唐使一行は圧倒されるだけであった。朱雀大街は、北の皇城の朱雀門から、南の城壁明徳門(めいとくもん)を貫く長安最大の南北をはしる都大路であった。その道幅は百五十メートルもあった。
前方、北の高台には、未だかって見たことのない、幾重にも重なった世界最大の宮殿郡が広がっていた。
「ああ、おお、あれが大明宮(たいめいきゅう)か」
 と、遣唐使一行は世界大帝国の宮殿に感嘆するばかりで言葉がでなかった。
 朱雀大路を北に向かうと、高さ五十メートルはあると思われる皇城の入口に構えている楼閣「朱雀門」を通り皇城内に入った。ここから道は「承天街(しょうてんがい)」と呼ばれ、正面に見える宮城の正門「承天門」まで続いている。その向こうが宮城である。宮城の更に東北の高台に大明宮の宮殿の甍が連なっていた。
「日本の平城京は長安城を見習って建設されたと言われているが、碁盤の目のような路、街の名称は事実その通りだな。しかし、大きさが違うわ」
「真備殿。やはり来てよかったですね」
「おお、来てよかった。長安は聞きしにまさる世界一の帝都だな」
「これほどすごいとは思わなんだ」
 日本からはるばるやってきた遣唐使一行は「鴻臚寺(こうろじ)」に入った。鴻臚寺と言っても寺のことではなく、今の外務省に当たる役所のことである。「鴻臚客館(こうろきゃくかん)」とは外国からの客人を歓迎したり、泊めたりする迎賓館施設であった。日本人専用の常設の鴻臚客館が長安にあった。

 押使多治比真人(おうしたじひのまひと)の遣唐使一行は貢ぎ物を献上し、中書省(ちゅうしょしょう)(政策の立案、詔の起草をする役所)において熱烈歓迎の宴を受けた。玄宗皇帝に謁見し、孔子廟(びょう)、寺院、道観(どうかん)(道教の寺)を礼拝した。正月の儀に参賀した後、翌年の夏、遣唐使一行は無事役目を終え、若い長期留学生を残し、日本へと帰途についた。
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 三人の留学生は、長安を去り日本に帰る遣唐使一行の無事を祈り見送った。
「あの独りぼっちの少年は誰ですか」
 阿倍仲麻呂が尋ねた。未だ十一、二歳と思われる一人の少年が、帰り船の一行に加わっていた。
「坂合部(さかいべ)殿、朝元(ちょうげん)をよろしくお願いします」
 少年の父親、僧弁正(べんしょう)が言った。
「弁正心配するな」
 今回帰国することになった前回の遣唐使副使坂合部が言った。
「朝元、坂合部殿の言うことをよく聞き、無事日本に帰りなさい。達者でね」
 少年の母親は両手をしっかりと握りしめ、涙を浮かべて言った。
「はい。お母さん大丈夫だよ」
「朝元、元気でがんばれよ。これをお守りに持って行け」
 兄朝慶(ちょうけい)は、弟に自分の一番大切にしていた真っ赤な透き通った美しい平たい石をあげた。石を太陽に向けて透かして見ると、真っ赤に光輝く太陽がくっきりと見えた。それは弟がいつも欲しがっていた兄の宝であった。
「兄ちゃんありがとう」
 七0二年(日本 大宝二年)前回の遣唐使の時、坂合部大分(さかいべのおおきた)、万葉歌人山上憶良(やまのうえのおくら)と一緒に長期留学僧として僧弁正は入唐(にっとう)していた。坂合部は今回の遣唐使の帰り船で十五年振りに、日本に帰国することにした。
 僧弁正は長安で唐女と恋に落ち、還俗(げんぞく)し結婚した。還俗とは一度出家した僧侶が再び俗人に帰ることを言う。二人の間に生まれた子が朝慶と朝元である。唐は開かれた国家で、外国人と唐の女性との結婚は自由に認められていた。ただし、唐の女性を国外に連れ出すことは、法で許されず、しばしば悲劇が生まれた。
「私たち母子を残して一人で、日本にお帰りになることはありませんわね」
「親子四人揃ってこの遣唐使船で十五年振りに故国に帰りたかった」
 弁正は正直に言った。
 愛する唐女の妻一人残して日本に帰ることは、弁正にはとても辛くて出来なかった。
「俺はこのまま唐に残る。せめて、次男の朝元を故国日本に送り勉強させることにしよう」
「朝元は未だ十二歳の子供、一人ではかわいそうですわ」
 妻はせがむように言った。
「お母さん、僕は大丈夫だ。日本に行って勉強してくるよ」
 朝元は半分泣き半分笑って言った。
 僧弁正は俗名秦氏(はたし)で、もともと渡来人(とらいじん)の出であった。碁が強く玄宗がまだ皇子の頃からの碁の朋であった。
 一人、日本国に渡った秦朝元(はたちょうげん)は中国語、日本語を駆使し、次回の遣唐使判官(ほうがん)として出世し、十六年振りに生まれ故郷中国に帰る。その時、朝元は二十七歳であった。

 阿倍仲麻呂、吉備真備、僧玄ムの留学生達は、取りあえず鴻濾客館(こうろきゃくかん)に逗留し、鴻濾寺で勉学にいそしむことになった。
 当時の中国の最高教育制度は国子監(こくしかん)と呼ばれその下に、国子学、太学(たいがく)、四門学(しもんがく)と三つの学校があり、家柄の位階によって入学許可が定められていた。国子学は三品以上、太学は五品以上、四門学は七品以上の皇族、官吏の子弟がそれぞれ入学許可された。
 三人の日本留学僧はまず国子監の超玄黙(ちょうげんもく)助教より鴻濾寺にて個人教授を受け、儒教、仏教の教典を通して漢語の基礎を一年間学んだ。超玄黙は特に「礼記(らいき)」、「漢書」の権威者であった。
「三人とも漢語の読み書きは唐人以上に優れており、大変驚きました。会話は学問ではない。唐人は皆誰でも話す。皆若いのですぐ話せるようになります」
 三人の留学生は、毎日、朝七時から昼十二時までむさぼる様に勉学に没頭した。
勉強が好きでたまらない優秀な若者達であった。砂漠に水がしみ込むように一滴も漏らさず吸収した。
「日本国の留学生は皆極めて優秀である」
 超玄黙は驚いた。
 そして、一年間の個人教授の後、三人はそれぞれ異なったおのれの道を歩むことになった。
「仲麻呂、君にはすでにもう教えることはない。太学にて学びなさい」
 阿倍仲麻呂だけは早くも三ヶ月後、皆と別れ太学で学ぶことになった。太学は五品以上の高級官僚の子弟しか入学を許可されない最高教育機関であった。超玄黙助教は仲麻呂がただ者ではないことに、すぐ気が付き、時の国子監の長に特別太学で学ぶことの許可を依頼した。
「幾らか優秀だからと言って、蛮国東夷(ばんこくとうい)の若者を権威ある太学に安易に入学許可させることは出来ない。中国の五品以下の官僚にも彼と同じくらい優秀な子弟は、いくらでもいる。規律が崩れ、不公平になるので入学は許可出来ない」
 超玄黙助教は初唐を代表する国子監の学者であったが未だ若く、家柄も必ずしも高くなく、位階も低かった。彼は玄宗皇帝に直訴した。
「阿倍仲麻呂は遙か蓬莱(ほうらい)の彼方から波濤万里(はとうばんり)を越えて命懸けで到来した、極めて優秀な留学生です。そもそも、科挙(かきょう)制度は家柄、位階に関係なく優れた人材を広く登用する、天下に類を見ない高級官僚登用制度であるはず太学においても、将来の大唐国、日本国、天下のために貢献出来る特に優秀な若者には国家、民族、家柄、位階を越え、広く門戸を開き、勉学のよい環境を与えてやることが中華世界の天子の王道ではありませんか。皇帝陛下、仲麻呂が太学で学ぶことが出来るよう許可お願い申し上げます」
「超玄黙、よくぞ言ってくれた。仲麻呂を太学で学ばせることを許可する。更に、生活に必要な資金は、全て大唐国より給付せよ」
 玄宗は名実共に世界帝国の皇帝にふさわしく、自負と高い資質を持ったき名君であった。
 吉備真備も日本の朝廷において、頭脳明晰な若者として、すでにその名を馳せていた。ずっと後、五十を過ぎてから、その功績により聖武(しょうむ)天皇より由緒ある吉備朝臣の姓(かばね)を賜った。
「仲麻呂は芸術家肌であり、真備は学者肌である。仲麻呂が文学青年であれば、真備は若き科学者である。仲麻呂は詩歌を愛し、真備は天文に興味を持っている」
 と、超玄黙は二人の日本人を評した。
「我が朝の留学生にして、名を唐国に挙げる者は、ただ、大臣(吉備真備)と朝衡(ちょうこう)(阿倍仲麻呂の中国名)の二人のみである」
 と、『続日本紀(しょくにほんぎ)』に記されている。二人は大唐国において高く評価されていた。
 ただし当時、中国の学問は、四書五経(ししょごけい)、儒教、仏教、歴史,詩が中心で、天文、暦法、算学、兵法などは実学として一段階下に扱われていた。特に詩歌の教養があることが極めて重要であった。天才真備に一つだけ欠けていたのは詩歌の才能であった。彼は詩を苦手としており、八十年の生涯において、一片の詩も残すことなくこの世を去った。
「仲麻呂殿。わたしは詩才がなく、本当に恥ずかしい」
「何をおっしゃいます。天才にも、一つぐらい出来ないことがあってもよいではないですか」
 当時、華やかにもてはやされたのは仲麻呂であっが、実質的に日本発展のため多くの影響を与え、貢献したのは真備であった。
 僧玄ムは法宗を学び玄宗皇帝より准三品(じゅんさんぴん)と紫袈裟(むらさきのけさ)を授かった。
 
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