2011年11月14日

連載(13)

nakamaro.jpg  (連載13)

 由緒ある阿倍一族は藤原家に押され気味で、一族の長老は皆仲麻呂に将来を期待していた。
「わかり申した。まず、藤原不比等(ふひと)殿に相談して見るとしよう」
 時の権力者は、藤原鎌足の子・右大臣藤原不比等であった。当時、阿倍家も藤原家に次いで、権力の中枢近くにいた。藤原家と阿倍家は親族関係にもあり、親しい間柄であった。
 藤原不比等の孫である藤原仲麻呂(後の恵美押勝)は、阿倍仲麻呂の五歳年下で、二人は幼馴染であった。阿倍仲麻呂が遣唐使留学生に抜擢されたのは十七歳で、その時、藤原仲麻呂は十二歳であった。眉目秀麗の若き二人の貴公子はすでに威光を放ち、平城京では皇族、貴族、女官から巷にまで「二人仲麻呂」ともてはやされていた。それから三十数年後、阿倍仲麻呂は大唐国の大臣に昇りつめて中国大陸で大活躍した。藤原仲麻呂は日本国において、太政大臣(だじょうだいじん)正一位まで昇進し、時の権力者にのし上がった。
 藤原不比等にとっても、阿倍家のこの申し出に、何ら異議申し立てる理由はなかった。不比等のはからいで、天皇にお目にかかることが出来た。
「不比等殿、今日はまた何とたくさんの阿倍家の方々のお出ましじゃのう。おお、懐かしい。比羅夫殿のご内儀ではないか。ご苦労されたことであろうが、お元気で何よりだ」
 と、元正(げんしょう)女帝が機嫌よくねぎらいの言葉をかけた。
「恐れ入ります。本日、阿倍家の方々より、今回の遣唐使大使派遣御任命の件につき、お願い申し上げたき儀ありまして、まかり出ました」
 と、不比等と阿倍家の面々はかしこみ申し上げた。
「この度、弟、阿倍安麻呂遣唐使大使の大役を仰せつかり、阿倍家一族にとって、この上もない名誉、ありがたき幸せでございます。しかし、お恐れながら、私も六十の年齢(よわい)を迎え、安麻呂も五十三歳になり、私と同じく、近頃、胸の病にかかり、この度の大役、無事務められるか心配致しております。つきましては勝手ながら、後ろに控えている阿倍仲麻呂を、代わりに唐国に行かせていただければとお願い申し上げます。もちろん、大使の大役を務めることは出来ませんが、唐国にて留学生として勉学に励み、将来の日本国のお役に立ちたいと申しております」
「おお、これが噂に聞く船守殿のご子息・阿倍仲麻呂殿か。まさに青嵐(せいらん)の顔(かんばせ)。阿倍家には立派な若者がおってうらやましいかぎりだ」
「帝様、大変お久しぶりでございます。お元気そうで何よりのことです。夫の比羅夫が行ってから五十三年になります。この度、息子が行けば夫と息子の二人ともが二度と帰ってこないのではと心配です。もし、お許しいただけるならば、年寄りの代わりに若者を行かせていただければとお願い申し上げます」
「わかりました。安麻呂殿の遣唐使大使への任命は取り消しましょう。仲麻呂殿に遣唐使留学生として随行してもらうことにします。日本国にとってこんなに力強いことはない。また、私は帝であると同時に一人の女人です。比羅夫殿の妻女の気持ちはよくわかる。阿倍家から二人行ってもらうのも大儀なことだ」
 天皇が一度出した任命を取り消すことは通常あり得ず、英断だったと言えよう。
「仲麻呂殿、唐国にて研鑽に励み、将来の日本国の力になって下さい」
「天子様。ありがたきお言葉かたじけのうございます。仲麻呂いきに感じ、一生の仕事として、命を懸けます」
 仲麻呂は顔を上げ、澄み切った大きな声で答えた。その声は凛々と平城京の夏の宮殿にこだました。それに合わせて、全員が深く頭を下げた。
「おお、心強いことだ」
平城京の街には卯木(うつぎ)の白い花が咲き乱れ、宮殿にも香りがたちこめていた。

「仲麻呂はまさに楓麻呂の生まれ代わりだ」
 阿倍家の者は皆そう信じていた。
 阿倍安麻呂は任命二週間後解任され、代わりに、大伴宿禰山守(おおとものすくねやまもり)が遣唐使大使として任命された。後年、その息子大伴古麻呂(おおとものこまろ)も二度唐に渡り大活躍し、その息子もまた唐に渡り、大伴一族は三代続いて遣唐使には不可欠の存在になったのである。

押使(おうし) : 多治比真人県守(たじひのまひとあがたもり)    従四位下
大使 : 阿倍朝臣安麻呂(あべのあそんやすまろ)    従五位上(任命取消)  
大使 : 大伴宿禰山守(おおとものすくねやまもり)     従五位下(阿倍安麻呂の代わり)
副使 : 藤原朝臣馬養(ふじわらのあそんうまかい)(宇合(うまかい)) 正六位下から従五位下 不比等の子
留学生(るがくしょう): 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)
     吉備真備(きびのまきび)
留学僧: 僧玄ム(そうげんぼう)

 翌年の七一七年(日本 養老元年)元正天皇によって派遣された遣唐使一行は、過去に類のない壮大なものであった。天皇家を頂点とする中央集権の律令国家が興隆を極める中、七一0年(日本 和銅三年)元明(げんめい)天皇(女帝)による平城京遷都に続く国家的大事業であった。元正天皇は遣唐使派遣の重要性をよく理解する名君の女帝であった。
「渡来人(とらいじん)の船造師(ふなつくりし)を大金で雇い入れ、大海の嵐にもびくともしない、安全な大型船四隻を造りなさい。金に糸目を付けなくてもよい」
「天子様、大きいと言いましても、どの程度の・・・、それで四隻も・・・」
 と、船造師の統領が面食らって尋ねた。
「船の長さ十丈(三十メートル)、幅二丈五尺(八メートル)、帆の高さ十丈で百五十人は乗れる船です。四隻ですよ」
「百五十人乗りの船四隻ですか。えらいことだ」
 統領は目を丸くして驚いた。
「そうです。陰陽生きるか死ぬかは、神のみぞ知る、時の運は五分五分です。四隻でいけば二隻は唐国にたどり着く。二隻で戻れば一隻は日本に帰り着くであろう」
 当時、日本には百人以上乗れる船など存在しなかったし、見たこともなかった。
「従来は一隻か二隻であったが、これ以降、遣唐使は四隻の大船団とする」
 女帝は詔を発した。
 
 未だかって見たこともない大型新造船が四隻、木の香を辺り一面にただよわせ、難波津の浜へ雄々(おお)しい姿を現した。他、九隻の船が送迎のため、四隻の大型船を取り囲んでいた。各船は二本のマストを持ち、メインマストは十丈の高さがあった。マストには竹で編んだ帆が数段に分けて巻き上げられ、藤蔓(ふじつる)の縄が幾数条も張ってあった。
 ブルン、ブルン、ブルン。
 と、春風に鳴っていた。
「すごい船だな。あれだったら嵐が来てもびくともしないだろう」
「朱塗りの美しい船だ。破風(はふ)の屋根は今まで見たこともない金色だ」
 見送りの民衆が驚きの声を上げていた。
 船腹は色鮮やかに、赤と黒で塗られていた。船首の両側には大きな金色の眼が描かれており、航海の安全のため大海原を睥睨(へいげい)していた。舷側には無風状態の時水手(かこ)が櫂(かい)を漕げるよう「棚板(たないた)」と呼ばれる椅子が付いていた。船の後部には、「喬屋(きょうおく)」(船室)と呼ばれる高い建物があり、屋上には大鼓(おおづつみ)が据え付けられ、二階には船長(ふなおさ)の室があり大海を見渡せるようになっていた。船の中央には、大きな客室があった。
 四隻の総勢五百五十七人は遣唐使始まって以来の大使節団であった。浜は何万人もの見送りの人であふれ、送迎の船も含めて十三隻の船が春の難波津に並んだ。
「壮観な眺めですね。あの大きさなら遭難することもなかろう」
 と、右大臣藤原不比等が満足そうに言った。
「前途洋々たる日本の夜明けを感じますね。大納言阿倍宿奈良麻呂殿、仲麻呂殿はどの船に乗られているのですか」
 元正天皇が華やいで、問いかけた。
「あの一番後ろの船です」
女帝と大納言は心の中で、
「必ず、生きて還ってこいよ」
 と、祈った。
 喬屋(きょうおく)の上に船師が仁王立ちになり、出航の大太鼓を打ち鳴ならした。
 ドーン、ドーン、ドーン。
 と、腹の底までしみ渡る太鼓の響きに、浜の桜がサラサラと散った。
 水手長(かこおさ)が銅鑼(どら)を叩いた。
 ガーン、ガーン、ガーン。
 難波の森の雀たちがいっせいに大空に舞い上がった。船首の轆轤(ろくろ)を使って碇がつながる藤蔓(ふじつる)のともづなをキリキリと巻き上げた。両舷側に坐っていた水手(かこ)達がいっせいにかけ声を出し、櫓(ろ)を漕ぎだした。
「エイサー、エイサー、エイサー、エイサー」
 第一船から上手に風に乗り、縦列に順次、港を離れていった。各船の両側に一隻ずつ、隊列の最後尾にもう一隻、合計九隻の船が送迎のため従っていた。マストの天辺(てっぺん)の細長い真っ赤な吹き流しの旗が春風に東に流れた。松林がザワザワと鳴り、宮廷の音楽隊が別れを惜しんで一層音を上げて演奏した。
 今回の遣唐使は往復共に全船遭難することなく役目を果した。長い遣唐使の歴史の中では希なことであった。
 第一船には多治比真人が、第二船には大伴山守が、第三船には藤原馬養が、第四船には大判官(だいほうがん)が頭として乗っていた。若い留学生(るがくしょう)阿倍仲麻呂、吉備真備(きびのまきび)、学問僧玄ム(そうげんぼう)等は第四船に乗っていた。

 仲麻呂は阿倍家の貴公子で、秀でた才能のため阿倍一族の星として将来を宿望されていた。剣の腕の立つ家臣羽栗吉麻呂(はぐりのよしまろ)が{従(けんじゅう)(従者)として唐へ従った。
「あの背の高い蘇芳色(すおういろ)の服をゆったりと着た貴公子は誰ですの」
 貴族の若い女達がささやいた。
「あれが噂の阿倍仲麻呂様ではないですか。あなた、知らないの」 
「なんとすてきな人ね。凛々しいわ」
 五尺八寸の長身の仲麻呂はえんじの服を海風にはためかせた。大きな白い麻袋を肩に掛け、黒漆(くろうるし)の鞘(さや)に紅(くれない)の帯執(おびとり)の付いた黒作太刀(くろづくりのたち)をさげ、一度ゆっくりと足を止め振り返り、見送りの人々に手を振り、笑顔で別れを告げた。その後、背筋を伸ばし、天空を仰ぎ遣唐使船へ、スタスタと上がっていった。刀は守護神として叔父の大納言阿倍宿奈麻呂から授かった伝家の宝刀であった。その後ろに家臣の羽栗吉麻呂が続いた。
 吉備真備は当時まだ下道朝臣真備(しもつみちのあそんまきび)と呼ばれていた。岡山県吉備出身の下級官僚の生まれであったが、若くして学問に秀で、留学生に抜擢された。入唐(にっとう)当時二十四歳で阿倍仲麻呂より七歳年上であった。白い衣服に、白い絹ひもで束ねた長い髪、真っ黒いあご髭を春風になびかせながら乗船した。大きな額に桜の花びらが二、三枚舞い散った。彼は下級官僚の出でありながら、後に右大臣まで上りつめた稀にみる逸材であった。
 僧玄ムは物部(もののべ)一族の四国阿刀氏(あとうし)の出身で、年は吉備真備の二歳年下。若くして仏教の教典に対する造詣が深かった。ちなみに同郷空海(くうかい)が遣唐使となったのは百年近く後のことであった。墨染(すみぞ)めの僧衣は舷側から動くことなしに、桟橋にたたずむ若い女をジッと見つめていた。他の人は全く目に入らず、その瞳は涙で潤んでいた。彼も帰国後文武(もんむ)天皇の宮子皇后(あやここうごう)の病を治し、僧正(そうじょう)として朝廷において重きをなした。
 三人の若者は、一つの船に乗った。それぞれの夢は異なっていたが、波乱万丈の人生の門出は遣唐使船であった。三人とも、命を懸けておのれの夢を実現しようと希望と勇気と自信に満ちあふれ、光り輝いていた。

「仲麻呂殿、阿倍家は由緒ある氏族で、一族の皆が朝廷の要職に就かれており、その上、貴殿の能力はすでに高く評価されている。将来が約束されている君が、危険が多く生きて還れるかわからない遣唐使留学生をわざわざ希望したのは、なぜですか」
 吉備真備が問いかけた。
「秘色の碗と世界地図です。で、真備殿はなぜ遣唐使の道を選ばれましたのですか」
 と、阿倍仲麻呂は逆に問い返した。
「秘色の碗と世界地図 ・・・」
 と、言ってから、真備はしばらく黙っていたが、答えた。
「私は下級官吏の身です。家柄ではなくおのれの才能と知識で国家のために尽し、立身出世をはかりたい。遣唐使に私の命を懸けました。唐に渡り、必死で勉強し、日本にもどります」
「玄ム殿はなぜですか」
 仲麻呂が尋ねた。僧玄ムはただ淋しそうに笑っているだけで何も答えなかった。
「あの女(ひと)は妹さんでしたのか」
 また、仲麻呂が声を掛けた。
「いいえ、僕の恋人です」
 若き僧は初めて言葉を発した。
posted by いきがいcc at 20:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 13.青嵐の顔