2011年11月10日

連載(9)

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         4.僧白遊(そうはくゆう)の悲劇


「玉蘭(ぎょくらん)、明日は久しぶりに三人で遠出しよう」
 と、比羅夫が言ったのは、子供が七歳になったある秋の日であった。
 次の日の夜明けと共に親子三人は、牛車にのって洛陽(らくよう)の都大路を南へ向かった。南市を通り過ぎるあたりで、拝火教(はいかきょう)(ゾロアスター教)・波斯胡寺(はしこじ)の鐘の音が聞こえてきた。
 カラーンコローン、カラーンコローン。
 季節はちょうど中秋のころ、群青の空は深く、長夏門(ちょうかもん)から城外に出て真っ直ぐ南に進む三人の肌を、正面に聳える五岳(ござん)から吹き寄せる秋風が心地よくなでた。松の緑の林の中に、所々、柿の木が紅葉しており、赤い実がなっていた。赤、黄が鮮やかに目に入り、目から消えていった。牛車の後ろに舞い上がる紅塵(こうじん)は、松の林に吸い込まれて、跡形もなく消えていった。
 龍門(りゅうもん)の石窟は、洛陽の街から十三キロ程南下したところにあった。視界がグンと開け明るくなった。伊水(いすい)が北に流れ、両岸には香山(こうざん)と竜門山(りゅうもんざん)が対峙している。両岸の岩壁約一キロに龍門石窟(りゅうもんせっくつ)が広がっていた。西暦五00年北魏(ほくぎ)の時代から岸壁に彫られていた仏像は皇族、貴族、官僚、商人、農民全ての人間が、それぞれ祈りと願いをこめて、極楽浄土を夢見、銘文を刻み、自ら槌を振るい、大小無数の仏を次々と彫ってきたのである。
 つい最近、六七五年(日本 天武四年)竜門山のほぼ中央の岸壁に岩をうがって、高さ十七メートル以上もある大仏を完成させたことを比羅夫は知っていた。漂う気品、神々しい姿、胸の衣の襞(ひだ)は、未来永劫に流れているようで、当時の中国仏教芸術の最高峰を極めたものであった。寄進した罪深い女帝、時の権力者則天武后は仏教の強い信奉者であった。
 ちなみに、それから七十数年後、奈良の大仏の開眼供養(かいがんくよう)がおこなわれるが、その大仏は、まさにこの奉先寺(ほうせんじ)の大仏を模範とした、と言われている。
 比羅夫は、白く輝く、荘厳で、慈悲に満ちた盧舎那仏(るしゃなぶつ)の姿に心洗われる思いであった。ここにやってきたのは、彼にとっては二度目であった。
「玉蘭、盧舎那仏の眼差しをご覧」
 玉蘭は楓麻呂(かえでまろ)の手を握りしめながら、その顔を仰ぎ見、それから急に気づいて子供の瞳を見た。
「ああ、似ている。一重のあの切れ長な大きな目。畏(おそ)れ多いことです」
「そうだろう。やはり瞳が同じだ」
 と、比羅夫は半ばぼう然としてつぶやいた。
「玉蘭、大仏様は聞こえない、喋れない、その上、動くことも出来ない」
 玉蘭はただうなずくだけであった。
 親子三人は手をつなぎ盧舎那仏(るしゃなぶつ)を黙って、いつまでも仰ぎ見ていた。
 秋の太陽の光りが薄茶色の石窟群を照らし、伊水(いすい)に映えていた。時間と共に、盧舎那仏は光りの陰影に生きていた。薄暮(はくぼ)の中、仏像はある時は微笑み、ある時は憂い、ある時は慈(いつく)しんでいた。そして、闇の中に消えてしまった。いつの間にか十三夜の月が輝いていた。

 楓麻呂(かえでまろ)は丈夫に成長していった。喋ること、聞くことが出来なかったためか、小さいときから書物を読むことが好きで、字が上手な聡明な子供であった。
「父さん、釈迦(しゃか)とキリストと孔子の三人の中で、最初に生まれたのは誰ですか」
「誰かなあ、お釈迦さんかな。そうだ、お母さんが知っているかもわからない。お母さんは結構物知りだから」
 母親は教えてくれた。
「仏教を開いた釈迦は、天竺(てんじく)(今はネパール)で紀元前五六三年に生まれ、四八三年に入滅(にゅうめつ)したのよ。彼はシャカ族の王子様だったけど、長年の修行の末、真理(ブッダ)に目覚めた。苦行でもなく、快楽でもなく、あるがままに生き、現世は無常であることを悟った。人は欲を捨てて、悟りを開くことで誰もが平等に救われると説いたのよ」
「欲を捨てて、あるがままに生きるのですか。おかあさん」
「ええ、難しいことよね。釈迦が生まれたのは、今から千二百年以上も前のことよ。キリストが処刑されたのは、紀元後三十年と言われているから、釈迦より五百年も後に生まれたことになるわ」
「孔子が生まれたのはいつ頃か知っていますか」
「儒教の創始者、孔子が魯(ろ)の国(中国山東省)に生まれたのは、紀元前五五二年で、そして、紀元前四七九年没したのよ」
「お父さん、釈迦と孔子は、ちょうど、同じ時代に生きていたんだね。釈迦は孔子の十一歳だけ年上で、亡くなったのも四年違うだけだ。もしかしたら、二人は友達だったかも知れないね。吐蕃(とはん)(チベット)の山あたりで逢っていたのか」
「いや泰山(たいざん)(山東省の名山)かもしれないぞ。そして二人は語りあったかもわからない。孔子曰く,『おお、祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の王子。朋(とも)、遠方より来たるあり、また楽しからずや(遠く離れたところに住んでいる朋が思いがけず訪ねて来てくれたか。こんなにうれしく、楽しいことはない)』と、釈迦曰く、『おお、東方の聖人。朋よ、汝は煩悩(ぼんのう)の炎を如何に消すことができますか。教えて下さい』と」
 楓麻呂はすでに書物を読んでおり、仏教、儒教に深い興味を持っていた。釈迦と孔子の生きていた頃の日本は有史以前の縄文時代であった。
「ついでに教えておくわ、最近、長安にも増えてきた、西域の人達が信仰しているイスラム教の創始者マホメットは、最近の人ですよ」
「お母さん知っているよ。マホメットと三蔵法師(玄奘(げんじょう))は、友達でこうこく康国(サマルカンド)の地で逢ったことがあるのだ」
「お前も勉強して、偉い人になって下さいね」
 親子三人は筆談した。

 比羅夫がこの世を去ったのは、洛陽に捕虜として連れてこられてから、二十七年後のことであった。息子の楓麻呂は十九歳になっていた。息子は三年前より、中国最古の仏教寺院・白馬寺で修行を始めていた。
 楓麻呂は最近ではすでに「寡黙僧(かもくそう)」と呼ばれ、洛陽の巷でも噂になっていた。楓麻呂は得度(とくど)し、僧「白遊(はくゆう)」と名乗った。白馬寺の青年僧、白遊は若くしてその天才ぶりが認められつつあった。
 やがて、父は臨終の床に就くこととなり、息子に語った。母親は筆談で息子に伝えた。
「二十歳になったら、お母さんと一緒に、日本へ行ってほしい。奈良にお父さんの一族が暮らしている。阿倍宿奈麻呂(あべのすくなまろ)を訪ねて行きなさい。宿奈麻呂はお前の兄さんだ。兄さんがいなければ、阿倍一族の誰でもよいから比羅夫の息子だと名乗りなさい。新しい日本の国造りのためにつくすのだ」
「はい」
 しばらく間をおいて言った。
「お母さんに預けてある羊の革袋を持って行きなさい。我が一族の家系図にも、お前達の名前を、ちゃんと書き込んである。白馬寺でこれから更に研鑽を積み、学んだことを日本に持って帰り、唐を見習い、日本を立派な国にしなさい」
「わかりました。お父さん」
「日本に行くにはお金がかかる。私の松葉杖の中には砂金が詰まっている。日本に行く路銀にしなさい。一本はお母さん、もう一本はお前の分だ」
 そして、比羅夫はポツリと言った。
「松葉杖はもういらない」
「玉蘭、世話になったな。捕虜になったお陰で、こんな幸せを掴んだ。本当にありがとう」
「私も、あなたと巡り会い幸せを掴みました。ありがとう」
 玉蘭は愛する男の涙を初めて見た。
「男の涙ほど、美しい物はないわ」
 心の中でつぶやきながら自分も涙した。比羅夫は、死んでも玉蘭の手をしっかり握ったまま離さなかった。比羅夫の涙は肩から腕を流れ、玉蘭の手に流れつたわって止まった。
 
 僧白遊(そうはくゆう)は、白馬寺で新羅からやってきた青年僧と友達になった。新羅の僧は名前を無一(むいち)」と名乗り、彼より三歳ほど年上であった。高句麗(こうくり)は唐と新羅の連合軍に負けて、すでに滅亡していた。彼の一家は、旧高句麗王の一族であったが、国が滅んだため遼東(りょうとう)半島に逃げて来ていた。

 誰が言うとはなしに「白馬寺の寡黙僧」と呼ばれ、洛陽の巷では若き高僧として人々に敬われるようになっていた白遊は、白馬寺の境内の石畳に敷いた大きな巻紙に、筆で教典と仏画をサラサラ書いて仏の道を民衆に教えていた。
「黙して語らず、その座す姿、その眼差しは、まさに弥勒菩薩(みろくぼさつ)の再来だ」 
 と、洛陽の民衆は噂(うわさ)した。
 彼が父親の遺言に従って、日本へ行くことを決意したのは、二十三歳の時であった。友人であり年上ながら彼を尊敬していた新羅の僧無一は、共に日本に行くことを強く望んだ。
「白遊殿。私も君と共に日本(やまと)に行きたい」
「それは心強い。二人で日本に行こう」
 玉蘭はすでに夫がいなくなった唐に強い未練はなかった。ましてや、息子と別れて一人洛陽で生活する気はまったくなかった。

「あの大きな妖僧(ようそう)は誰ですか。最近、得体の知れぬ僧を多く見かけるが」
 青年僧、白遊が眉をくもらせて僧無一に訪ねた。
「あれが噂の薛懐義(せつかいぎ)で則天武后の男妾(だんしょう)ですよ。白馬寺の住職になるそうで、由緒ある白馬寺もおしまいですね」
 則天武后は、皇室に出入りしていた妖しげな薬屋の大男に夢中になり、自分の男とした。世間の手前もあり、彼を白馬寺の僧として、宮廷に出入りさせたのである。
「日本に行こう」
 楓麻呂は決心した。
posted by いきがいcc at 12:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 9.僧白遊の悲劇