2011年11月08日

連載(1)

秘色の碗

−楊貴妃が愛した日本人ー

                               
吉村晴夫

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(連載1)

      1.安倍比羅夫(あべひらふ)の慟哭

 片足の老兵は隊列のしんがりから、遅れまいと重たい松葉杖を中国、北の凍てつく大地にコツン、コツンと響かせながら前進していった。その響きは乾いた大気の中を東西南北に波紋のように広がっていった。丹崖山(たんがいさん)(山東省蓬莱市(ほうらいし)の岬)の丘の上で、ふと立ち止まり、後ろを振り返れば、北に渤海(ぼっかい)、南に黄海(こうかい)、蒼茫たる大海原が果てしなく広がっているばかりであった。
「ああ、これが登州(としゅう)(中国山東半島の港、蓬莱市)の港か。おお、やけに寒さが身にしみる。晩秋の雁(かりがね)がねぐらに飛んでいくわ。こんな遠くまできてしまったわい」
 老兵は一人立ち止まってため息をついた。背筋を伸ばし頭(こうべ)を上げて、大海を見つめながらつぶやいた。日本、朝鮮にとって、登州は古代中国大陸への玄関口であった。
 六六三年(日本 天智(てんち)二年)の暑い夏は終わった。日本と百済(くだら)の連合軍は、唐と新羅(しらぎ)の連合軍に朝鮮半島の北西の地、「白村江(はくすきのえ)の戦」において、敗北した。日本の多くの兵隊は捕虜として唐国に連れて行かれた。

 ザワザワドプン、ザワザワドプン。
 丹崖山(たんがいさん)岬の足もとの赤い岸壁には、北海の波が白く砕けては散っていた。遠く眼下に見える海岸のまばゆいばかりの白さは、砂ではなく貝のなきがらであった。無数の貝殻は寄せては返す波に洗われ、太陽に晒(さら)され、砂浜に自ら光り輝いていた。老兵はまた歩きだした。前方の眼下には柏楊(はくよう)の並木道が地平線の彼方まで、果てしなく続いていた。
 開元寺(かいげんじ)の古木(こぼく)には寒鳥(かんちょう)が鳴き、空山(くうざん)に夜猿(やえん)が啼く。蕭蕭(しょうしょう)と悲風(ひふう)千里より来たる。寂寞(せきばく)とした大荒野を、南下するに従い、泰山(たいざん)(山東省にある名山)の頂が少しずつ眼前に大きく迫ってきた。
「おお、あれが聖なる山、泰山か・・・なんと、雄大な山だ」
「「しんがりの奴隷、何をしゃべっておるのか。黙って歩け」
 唐の分隊長が大声で怒鳴った。
 唐軍の率いる百済遠征部隊は、凱旋して都に向かっていた。敗れた日本軍の捕虜数千人は、奴隷として、朝鮮半島から船に乗せられ、中国に連れてこられた。登州で下船させられ、第二の都、洛陽(らくよう)へ向かう唐の西行(せいこう)軍に従っていた。
 
 百済は、この度の白村江(はくすきのえ)の戦いより三年前、唐と新羅の連合軍にすでに一度敗北していた。白村江の戦いは二度目の敗戦となり、百済はここに完全に壊滅したのである。
白村江の戦いにおける日本からの援軍の大将は、先の片足の老兵、阿倍比羅夫(あべのひらふ)であった。
阿倍比羅夫は,筑紫太宰師(つくしのだざいのそち)(太宰府の長、正四位相当)の要職についていた。天皇から高い評価を得ており、当時、最も信頼に足る日本の名将であった。阿倍比羅夫は二度にわたり、飽田(あきだ)(秋田)、渟代(ぬしろ)(能代)を平定し、渡島(おしま)(北海道南部)まで遠征した。阿倍家はもともと武人として、皇室に仕えてきた由緒ある氏族であった。

 六六二年(日本 天智元年)三月、日本は建国以来初めて二万七千人の大軍を朝鮮半島に派遣した。四百艘の船が朝鮮海峡を越えて行った。春の日本海は、赤、黄、青の吹き流しをはためかせた軍船で一杯であった。その軍団の兵、船の数は唐・新羅連合軍よりはるかに勝っていた。日本の威信をかけての大船団であった。   
 しかしながら、日本水軍はただ満ち潮にのって、白村江の河口へと突入するだけで、底の平たい、たらいのような日本の船は波間にくるくると回るだけであった。唐水軍は両岸に船をならべて、両岸から日本軍を待ちかまえて、火攻めにした。多くの船が炎上し、大海が真っ赤に染まった。
 唐と日本の軍船が、荒波の中で激突し、阿倍比羅夫は吹っ飛ばされた。両船に挟まれ右足の膝頭がグシャとつぶれた。彼はブラブラになった激痛のはしる右足を岸辺の岩の上に投げ出した。
「俺の右足を太股から一刀のもとにたたき切ってくれ」
 と、副将に言った。そして、彼に天皇から賜った名刀を渡した。
「大将、よろしいですか、いきますよ」
「おお、頼む」
 副将は骨もろとも、見事に一刀で大将の足を切断した。ガツンと力余って、刀が岩肌に炸裂し、名刀の刃が光ってこぼれた。ドサッと、大将の切断された足が岩から落ちた。鮮血が晩夏の群青の空に勢いよく吹き上がって舞い散った。大将は切断されたおのれの足を一瞬見つめたが、それをつかみあげ坐ったまま、太い腕で力まかせにグルグル振り回して、白村江の河に投げ込んだ。ドボーン。それと同時に彼は倒れ気を失った。熱い八月の太陽の光の中で、鬨(とき)の声が遠くから聞こえてきた。
「いいか、大将の太股の皮膚を引っ張り、引き下げ麻縄で、腸詰めの端のように結びあげろ」
 副将が部下に命令した。
「河の水で傷口を洗い、薬草蓬(よもぎ)で止血しろ。急げ」
 ほとばしる鮮血が白砂(はくしゃ)にあっという間にしみ込んでいった。
「あの洞窟に逃げ、大将を安静に寝かせろ」
 彼は三日三晩意識不明のまま眠っていたが、奇跡的に息を吹き返した。
「おお、大将が生き返った。裏山にいって、太くて、堅い木を採ってこい。大将の松葉杖を作るのだ」
 副将は、意気込んで船大工の部下達に命令した。樫の木で、頑丈な松葉杖を作り、大将に与えた。
「これはありがたい。しかし、えらく重い松葉杖だな」
 と、言ながらも彼はそのズシリとした重量感が気にいっていた。
 しかし数日後、大将とそれに付き添う敗戦の兵は、唐軍に発見され捕虜として捕らえられた。日本軍は大敗したのであった。
「安易におのれの命を落とすでないぞ。命あっての物種だ」
 阿倍比羅夫は、武人として決して死を恐れる男ではなかった。片足を切断しても生に執着したのは、日本が体験した世界大戦にみじめな敗北を喫した将軍としての責任を感じていたためだ。これからの日本のため、この体験と敗北の原因を後世に伝える必要を強く感じていた。
「このままでは、日本(やまと)が危ない」
「はい。大将」
「皆、生きるのだ。死んではならぬぞ」
 部下をはげます言葉は自分にも向けた言葉だった。

 阿倍比羅夫は、白村江の敗戦の原因は戦略、戦術、内紛が全てではなく、それはまぎれもない国力の差であった。唐軍の武器は近代的であり、船の構造、強固さ、速さが日本軍のそれとは全く異なっていた。
「獅子と鼠の戦いだ。たらいのような船を何隻揃えたところで、しょせん大唐国の敵ではなかったわい」
 と、比羅夫はつぶやいた。
 大唐国は世界最大の強力国家であった。西は突厥(とっけつ)、波斯(ペルシャ)、東は高句麗、新羅までその勢力下にあった。百戦錬磨の戦いを勝ち抜いてきた強者どもがいくらでもおり、日本とは格が違っていたのである。
 中国の長い歴史は戦争の連続であり、動乱と分裂の繰り返しであった。多くの優れた武器、兵法が受け継がれていたのである。国土は地平線の彼方まで広がっており、長安(ちょうあん)、洛陽(らくよう)は想像を絶する華麗な都市であった。壮大な宮殿が甍を連ねていた。北の山々には果てしなく長城(ちょうじょう)が築かれていた。大運河は揚州(ようしゅう)(上海の近く)の港から洛陽の都まで、延々何千里とつながって水をたたえていた。律令国家、官僚制度、仏教寺院、文化芸術は日本と比較できないほどの高さであった。まさに、当時の世界大帝国であった。
「わしは、秋田の蝦夷を征伐し、得意げになっていた井の中の蛙だな。ようこんな大国を相手に戦かったもんだ」
「はるかなる黄河はまるで海のようだ」
 副将が相づちを打った。
 その後の長い歴史において、島国日本は同じ過ちを何度も繰り返すことになった。 阿倍比羅夫は雄大な黄河の辺にたたずんで後悔した。
「天下を知らず。敵を知らず。おのれを知らず。頭をしたたかに殴られ、我に帰った。日本(やまと)は、俺は、天下に目を向けなければいけない。島の中におっては、何も見えぬわ。大唐国の全てを学び、吸収し唐と天下を二分する国家に作り上げなければいけない」
 と、誓った。
「白村江の海に沈んでいった、何万の兵士の命を無駄にしてはいけない。このままでは日本が滅ぶ。二度と繰り返すな。死ぬことは簡単である。神の庇護がある限り生きながらえて、日本に帰り国家興隆を図ろう。大唐国の偉大さを学び、なんとしても誰かに託し、後世に繋げなければならない」
「そうだ。知らないで死んでいくよりも、知って生きたい」
 と、副将も相づちを打ち、心の底で、力強くつぶやいた。
「頭(こうべ)をあげて天下を見わたせ。唐国に学べ」
比羅夫が言った。(1-2011.11.1)
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