2011年12月14日

連載(37)

genbu.jpg  (連載37)          

            15.秘色の碗

 一方、高元度(こうげんとく)は七五九年の暮れ戦禍をくぐり抜け無事長安にたどり着いた。
「藤原清河殿、阿倍仲麻呂殿、ご存命で何よりでございます。天皇、藤原仲麻呂以下朝廷の皆様がお二人のご無事を心から喜んでおられます」
「遠路はるばる危険を冒してかたじけぬ」
「平城京の人々は二人が生きていたと知って喜びで沸き返っておりますよ。さあ、一緒に日本に帰りましょう」
 無事長安に到着した高元度が言った。
「せっかく遠路はるばる来てくれ申しにくいことであるが、高元度殿、私も、もう六十三になる。長安は奪回したとはいえ、この戦時下に陸路、敵の本拠地を経由して、新羅を越え、渤海国経由で、日本国に帰ることは大変至難で、自信がない。妻と子供もいることだし、このまましばらく長安に残って様子を見たい。仲麻呂殿、貴殿はどうなさる」
「私も長安に残りたい。現状では日本への海路はもちろん、陸路渤海国まで行き着くのも至難の業だ。清河殿が長安におるのであれば心強い」
「確かに、日本から来るのにも大変難儀をしました。中国東北部は安禄山の軍隊であふれており、街は戦争で破壊され、治安は乱れ、女、子供を連れての旅は大変危険です。しばらくここで様子も見ざるを得ないでしょう」
「では、私が長安に残って二人にお仕えしましょう」
 と、羽栗翔(はぐりのかける)が言った。

「ところで高元度殿、吉備真備殿と大伴古麻呂殿はお元気ですか?」
 阿倍仲麻呂が懐かしそうに尋ねた。
「真備殿は中央でご活躍するべきお人ですが、太宰少弐(ださいのしょうに)に任ぜられ太宰府に追いやられました」
「そうか、真備殿は太宰府におるのか。藤原仲麻呂殿とは馬が合わぬのか」
「しかし、お元気で活躍されています」
「して、古麻呂はいかがか?」
「大伴古麻呂殿は、二年前、非業の死を遂げました」
「なんと、非業の死を」
「藤原一族の専横に憤って反乱が起きた。古麻呂殿はこれに連座した罪で死刑に処せられました。一昨年のことですよ」
「良い男を失わせてしまったの」
「無実の罪を着せられたのです」
「何故ですか」
「時の権力者、藤原仲麻呂の朝鮮討伐の野心に正面から体を張って、戦争反対を唱えた偉大な軍人だ」
 と、多くの世の人は高く彼を評価した。

「古麻呂の死を無駄にすることは出来ぬ」
 阿倍仲麻呂は心に言い聞かせ、壮年のころのように立ち上がり心が奮い立った。

 阿倍仲麻呂は長安にあって直ちに動いたのであった。唐、渤海、新羅そして日本太宰府の吉備真備らと連絡をとった。唐からは使者を日本に派遣し「日本が新羅を攻めたら唐も日本を攻めるぞ」と強硬政策で脅かした。
 渤海からは「専守防衛に徹する。侵略のための軍事同盟は結ばない」と平和外交に徹した。
 新羅からは使節団をおくり込み、「日本国天皇に膨大な貢ぎ物を献じる」と懐柔策に打って出た。

 阿倍仲麻呂は日本人ではなく大唐国の国際派高級官僚として、唐国のみならず、新羅、渤海においても彼の名とその人徳は高く評価されていた国際人であった。阿倍仲麻呂は東洋の平和のために奔走したのであった。

 新羅討伐主戦論者、藤原仲麻呂は正一位太政大臣(だじょうだいじん)となり、権力を集中し朝鮮討伐の最後の仕上げを立て続けに押し進め、淳仁天皇に朝鮮出兵の詔を出させようとしていた。
 一方、長安の阿倍仲麻呂と太宰府の吉備真備は孝謙上皇を通して朝鮮出兵を阻止すべく激しく動いていた。
 そしてついに、孝謙上皇と淳仁天皇の対立、不和が顕在化した。両者の間がしだいに険悪とり、遂に七六二年両者は破局を迎えることになった。
「今より政(まつりごと)に関して、祭祀(さいし)など小事は淳仁が行い、国家の大事と賞罰は朕が行う」
 権力の実権は女帝孝謙上皇が掌握した。それは孝謙上皇と藤原仲麻呂との対立に他ならなかった。それは藤原仲麻呂の権勢が頂点を下ることになったのである。
「淳仁天皇、朝鮮出兵は許さぬ。藤原仲麻呂の暴走を抑えねばならぬわ」
 女帝はきっぱりと言った。男女の愛が憎悪に代わっただけではない。阿倍仲麻呂と吉備真備の戦争回避の努力が実ったのであった。
「朝鮮出兵は認めません。討伐軍は直ちに解散せよ」
「なんと、この期におよんで解散せよと」
「日本存亡の危機を救わねばならぬ」
 吉備真備が言った。
「藤原仲麻呂よ。なんじは枯れ草の松明(たいまつ)をもって、風に向かって走っているようなものだ。愚か者よ。その炎はなんじの髪を焼き、手を焼き、腕を焼き、体を焼き、そして、やがて国を焼くであろう。すみやかにその欲望の炎を手放せ。投げ捨てなさい」
 孝謙女帝は藤原仲麻呂を激しく叱責した。
 伊勢神宮に朝鮮出兵の成功を祈願し、天皇の詔を待っていたが、ここに三軍、五万の兵士、五百の軍船の朝鮮討伐軍は一度も出兵することなく幻の討伐軍となったのである。
 そして、窮地に追いやられた藤原仲麻呂は兵を挙げ謀反を起こした。恵美押勝(えみのおしかつ)の乱である。これを鎮圧したのが日本一の軍師、吉備真備であった。日本存亡の危機は救われたのであった。

「阿環(あかん)。昨年、王維(おうい)が逝き、今年は玄宗上皇、粛宗(しゅくそう)皇帝、高力士、李白の四人が立て続けに亡くなられた」
「あなたのお仲間が次々にお亡くなりになり淋しいことですね」
「未だ、元気なのは私と清河殿だけになってしまった」
「でも、皆さん長寿を全うされましたわ。昔から七十まで生きる人はほとんどいませんもの」
「人生七十古来まれなり・・・と、誰かがうたっていたわい」
 玄宗皇帝は七六二年(日本 天平宝字六年)に崩御した。子の粛宗も玄宗の死後十三日後、続いて亡くなった。友人宦官高力士も玄宗皇帝の死を追って同年、自らの命を絶った。青春を共に語った同じ年で、進士の同期生の詩人王維もその前年にすでに亡くなっていた。李白も玄宗皇帝と同じ年この世を去っていた。
 共に生きてきた多くの仲間、朋友と別れ、阿倍仲麻呂は寂しく終南山の麓で阿環と共に暮らしていた。かって日本への帰国の途遭難し、共に漂流の末、苦労をともにし生還した藤原清河だけがいまだ健在であった。

「秘色の碗・・・。秘色の碗をお前に・・・。阿環」
 阿倍仲麻呂は七七0年(日本 宝亀元年)正月、最後の言葉を残し、この世を去った。最後の官職は安南節度使(あんなんせつどし) 正三品であった。それは名誉職で阿環と二人で、終南山にて余生を送った。死後その名誉をたたえ、代宗皇帝は路州大都督(ろしゅうだいととく)従二品を追贈した。藤原清河も阿倍仲麻呂の死を目の当たりにし、一人娘を残し、後を追うようにして同年に亡くなった。杜甫(とほ)もこの年に亡くなった。時に、阿倍仲麻呂七十歳、藤原清河七十五歳の長寿を全うした。一時代が、盛唐は終わった。
 
 仲麻呂は日本遣唐使派遣団を入唐の度、親身になって世話をした。日本と朝鮮あるいは中国をも巻き込む世界戦争を回避するために奔走した。もしあの時、戦争を起こしていたら、今日の日本国は存在していなかったであろう。
 玄宗皇帝はもちろんのこと、唐の高官、知識人、文化人の多くの友人達、楊貴妃、王維(おうい)、李白(りはく)、高力士(こうりきし)、鑑真(がんじん)、思託(したく)等と文化、歴史、宗教、政治について共に語り日中の大きな架け橋となって一生を終えた。日本人の心の原型を作り上げた漢字、仏教、儒教はこの時代これらの人々によって中国からもたらされたのである。仲麻呂は生涯私利私欲に走ることない清廉潔白な高官であった。子孫に財産を残すことはなかったが、世にその名を残した。

 阿倍仲麻呂が唐国で亡くなってから七年後のことであった。七七七年(日本 宝亀(ほうき)八年)の遣唐使節団が入唐した。

大使 :佐伯宿禰今毛人(さえきのすくねいまえみし) 正四位下 仮病を使い辞任
副使 :小野朝臣石根(おののあそんいわね) 従五位上(大使代理)
判官 :大伴継人(おおとものつぐひと) (大伴古麻呂の子)
録事 :羽栗翼(はぐりのつばさ) 外従五位下(羽栗吉麻呂(はぐりのよしまろ)の子)

 大伴継人は、かって唐の朝賀の席で新羅と席次を争った、また鑑真和上日本招聘に尽力した大伴古麻呂の息子であった。
 羽栗翼は阿倍仲麻呂の兼従(けんじゅう)(従者)として随行した羽栗吉麻呂の息子である。吉麻呂は唐国の女と恋をし結ばれ、二人の子供翼(つばさ)と翔(かける)をもうけた。外従五位下に昇進し准判官(じゅんほうがん)として四十三年振りに生まれ故郷、唐に帰ってきたこの時、翼五十七歳であった。羽栗翼にとって大きな喜びが二つあった。父の主人で幼少時代可愛がってくれた名付け親の仲麻呂に、再会できることであった。もう一つは七五八年(日本 天平宝字二年)藤原清河、阿倍仲麻呂を迎えに行ったまま日本に帰らず、そのまま長安に留まって二人に仕えている弟、翔に十九年振りに逢えることであった。しかし仲麻呂、清河二人ともすでに故人となっていた。
posted by いきがいcc at 23:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 37.秘色の碗
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