2011年12月03日

連載(27)

ganjin-kinenhi.jpg  (連載27) 

 大使の船を後にした古麻呂は、そのまま自分の船に戻って眠る気にはなれず、揚州の運河の花街を居酒屋へと足を運んだ。痩西湖(せいせいこ)の岸辺から運河沿いに続いている長堤(ちょうてい)の道のしだれ柳が、秋の夜風に微かに揺れていた。晩秋の月明かりに葉が緑と白と交互に冷たく光っていた。河畔にはあずまやが点在していた。特に、観月楼(かんげつろう)から眺める中秋の名月に古麻呂の心は、いくぶんいやされた。男が大声で泣いているのに古麻呂はふと歩みを留めた。
「普照(ふしょう)殿ではないか。どうなされた」
「ああ、古麻呂殿。唐での私の十九年間は、一体何だったのだろうか。栄叡(ようえい)よ、祥彦(しょうげん)よ、どうしたらよいのか。ああ、お前達はなぜ先に逝ってしまったのか。六回目も、まただめなのか」
 鑑真和上一行を日本に連れて行く試みは、すでに五回失敗に帰していたのであった。
 栄叡は和上の日本渡航のため最初から普照と辛苦を共にしてきた。前回、第五回目の渡航は船が難破、漂流して海南島まで流された。海南島から揚州への帰路、栄叡は広州端渓(たんけい)の地にて、三年前、病にかかり本願を遂げず、志半ばにして異境の地で亡くなった。それから幾日も経たないころ、鑑真和上と日本行きに従うと最初に名乗り出た若き中国僧祥彦(しょうげん)も旅路の船上にて病に倒れこの世を去った。
 普照は辺りに憚(はばか)ることなく大声で男泣きに泣いた。
「普照殿。早まることはない。諦めるな」
 と、古麻呂が肩をたたいて慰めた。
「和上様。私はどうしたらよいのでしょうか。和上様を残して、何で一人日本に帰れましょう」
 普照は河に向かって語りかけた。
 背後から人の近づくけはいを感じた。古麻呂はギクリとし、刀の柄に手を掛けた。夜更けの岸辺に人が近づいてきた。
「何だ、仲麻呂殿か」
「お二人さん、今夜は飲みましょう」
 三人は居酒屋の、のれんをくぐった。仲麻呂は広陵地方の銘酒「老春(ろうしゅん)」と肴には蟹と野鴨の蒸し焼きを注文した。真っ赤な薄衣(うすぎぬ)をまとった胡人の女が酌をしてくれた。
「古麻呂殿、貴殿が今何を考えているのかよくわかっていますよ。私もあなたと同じことを考えています」
「やあ、今夜は冷えますな」
 古麻呂は見透かされたような気がして、ドキリとした。感づかれてはまずいと思い、だまって一気に杯を空けてとぼけた。空きっ腹に強い老酒(らおちゅう)(紹興酒(しょうこうしゅ))が喉から腹の底まで熱く流れていくのがわかった。
「おお、酒をもう一本ください」
 ふだん、酒を飲まない普照も立て続けに飲んだ。
「仲麻呂殿、古麻呂殿、私の話を聞いて下さい。私と栄叡(ようえい)が初めて鑑真大和上にお目にかかったのは今から九年前、この街、揚州の大明寺(たいめいじ)でした。この高僧の足もとにひれ伏し、生涯、仏の道を極めることにしたのです。弟子として、一生仕えることを決意したのです」
 それは入唐十年目に掴んだ至福の日だった。高僧を日本へ迎えるため、東海の果てからはるばるやってきた二人の青年僧の夢は、叶えられようとしていたのだ。
「苦節十年、ああ、六度目の挑戦もまただめか」
 普照は酔いながら、泣きながら訴えた。
「普照殿、私は鑑真和上をなんとしても、日本に連れていかなければならないと考えています。玄宗皇帝は極めて寛大な天子です。面と向かって天子の意に反するのは畏れ多いことですが、役人共に気づかれずに、うまく唐を脱出さえ出来れば、そのことが後でわかったとしても、それほど大きな国際問題に発展する可能性は無いと確信しています。故国のため、和上一行を日本に連れて行きましょう」
 仲麻呂が普照を励ますように肩を叩いて、はっきりと言った。古麻呂は、仲麻呂がそんな大それたことを考えているとは思わず、びっくりした。
 唐の高官の地位にありながら、己の保身、利益、昇進だけを考えるのではなく、天下を思い、国家を思い果敢に突き進む仲麻呂の姿に心が打たれた。
「その通りです。仲麻呂殿、今から約百三十年前、三蔵法師は西方天竺(てんじく)に仏の教えを求め、国禁を犯し、長安を密出国した。今まさに、鑑真和上は東方日本に仏の道を伝えるため、楊州を密出航せんとしている。東西域は異なれど、求法(くほう)の道は皆同じ、俗界の及ぶところではない。仏の道を誰が止めることができようか」
 普照は目を閉じて、大声で話し続けた。普照は大分酔っていた。
「お二人さん聞いて下さいよ。あれは唐にきてから、十年目の、ちょうど今日のような晩秋のことで、私と栄叡は大明寺に着き至福の時でした」

 大和上(だいわじょう)の足もとにぬかずき、つぶさに本意を述べて、我と栄叡曰(いわ)く。

―仏法東流(ぶっぽうとうりゅう)して日本国に至れり。その法ありといえども伝法(でんぽう)に人なし。今この運にあたる。願わくば和上、誰か御門下の方、東遊して化(け)を興(おこ)したまえと―
 大和上、答えていわ曰く。
―山川域(いき)を異にすれども、風月は天を同じうす。これを仏子(ぶっし)に寄せ、共に来縁(らいえん)を結ばんと。これ仏法興隆に有縁(うえん)の国なり。今、我が同法(どうほう)の衆中(しゅうちゅう)に、誰かこの遠請(えんせい)(要請)に応じて日本国に向い、法を伝ふるものありやと。誰かこの遠請に応じて日本国に向い、法を伝ふるものありやと―  
一座の衆僧(しゅうそう)みな黙して答うるものなきのみ。しばらくして、弟子の祥彦(しょうげん)曰く。
―かの国は蒼波(そうは)遠く、百に一度もたどりつくに至るなし―
 遮って、和上、曰く。
―是(こ)は法のためなり、何ぞ身命(しんみょう)を惜しまん。諸人(しょじん)・・・、去(ゆ)かずば、われ即ち去(ゆ)かんのみ―
 僧祥彦、曰く。
―和上もし去かば、彦(げん)もまた、随ひて去かんと―
 二十一人の弟子が和上に従った。
 我らは生涯鑑真和上高僧の弟子として、仏法の道を歩むことを心に決めた。
―和上もし去かば、叡照(えいしょう)もまた、随ひて去かんと―

 時に、鑑真和上五十五歳の秋であった。あれからすでに五回日本行きを決行したが、全て失敗に終わった。
「我は今一人なり。留学僧仲間の玄朗(げんろう)、玄法(げんぽう)は早くも道を分かち還俗(げんそく)してしまった。ああ、共に歩んできた栄叡(ようえい)と祥彦(しょうげん)は道半ばにして、すでにこの世を去った。なお失明し、六十五歳の老齢をものともせず、唐に名だたる高僧の地位を顧みず、法のためこの信念の下、なお立ち上がり度重なる苦難と逆行を乗り越え、決行することを誰が止めることなど出来ましょうか」

 古麻呂は今まで言葉少ない静かな壮年僧の不惜身命(ふしゃくしんみょう)の一途(いちず)な思いに圧倒された。そして、内に秘めたる強い意志、仏への帰依(きえ)の深さに感動した。穏和で柔和な阿倍仲麻呂に対してもまた、鑑真和上の密航をズバリと言い切る決断力、冷静沈着な実行力に畏敬の念さえ持った。彼は久しぶりに思いが相通じる朋友を得たことを喜び、酒を口に運んだ。三人は鑑真和上一行の密航について、夜が白むまで共に計画を練った。
「今夜は楽しい、老春の一升徳利が三本も空になったわい」
 仲麻呂もだいぶ酔っていた。
「今夜の月は赤い」
胡姫(こき)(酒場の西域出身の舞姫)が歌う「「関山(かんざん)の月」の楽府(がふ)(古い詩)が琵琶の音と共に揚州の夜のしじまに聞こえて来た。それにあわせて仲麻呂が酔って、歌った。その声はまるで五十代とは思えぬ青年の声であった。


  明月(めいげつ) 天山(てんざん)に出(い)づ
 ―明月が天山(西域の山脈)の上にさしのぼり―
  蒼茫(そうぼう)たり 雲海の間(かん)
 ―蒼く暗く広がる雲海を照らしだし―
長風(ちょうふう) 幾万里(いくばんり)
 ―遠く吹きよせる風は幾万里―
  吹き度(わた)る玉門関(ぎょくもんかん)
 ―遙かに玉門関(西域の関所)を吹き渡ってゆく―

 そして、三日後の朝、鑑真和上一行が泊まっている大明寺を訪れることを約束し別れた。三人の心は晴れ晴れとしていた。これからやろうとしている大それた仕事は、ただ日本国を思う純粋な心から発したものであった。そして、それは日本の歴史を大きく変えることになったのである。帰り際に仲麻呂が言った。
「普照殿、貴殿はこなくてもよい。貴殿はすでに役人に顔を知られ過ぎている。おって結果を連絡する。それから、鑑真和上一行の密航は、我ら三人で決行しよう。藤原清河大使、吉備真備副使は知らないことにして、迷惑を掛けないようにしよう」
「わかり申した」
 他の二人がうなずいた。仲麻呂は、もしも、事が失敗に帰した暁には、おのれ一人の責任にしようと腹をくくっていたのである。

 実は過ぎ去ったその年の夏、普照(ふしょう)は刺客に殺されるところであったのだ。
 普照は夏より、楊州大明寺に寝泊まりし、江南の幾人かの僧を呼び寄せ、鑑真和上と共に日本へ行こうと誘っていた。
「僧普照が大明寺に居座り、また、多くの僧をそそのかし、日本に密航することをたくらんでいる」
 新羅の間者の貧相な姿の頭(かしら)が手下の大男に言った。
「やりますか」
「ああ、俺は顔が割れているから、お前がやれ。正体がばれぬように気を付けろ。報酬は高いぞ」
「ぬかりはないわ。闇討ちしてやります」
 大男は大明寺に入っていった。普照が僧達と別れ、一人、寺の別院の庫裏(くり)にある住みかに帰ろうとしたところを狙われた。
「誰かがつけているな」
 普照は気が付き別院の庫裏に入らずに、ぐるりと回って薄暗い大雄殿(だいゆうでん)の十八羅漢(らかん)の陰にヒラリと隠れた。
「逃げ足の早い野郎だ」
 刺客が行き過ぎるのを待って、外に飛び出した。蝉の鳴き声がうるさかった。あたり一面に睡蓮の生い茂る池に素速く飛び込み、体を仰向けに大きな睡蓮の葉陰に埋めた。顔だけを水面からわずかに出し、そっと息をした。戻ってきた刺客は、池の波紋を見つめ、いきなり刀を水平に振り切った。
「何処に隠れやがったのか」
 睡蓮の葉がなぎ倒された。刀の切っ先が鼻先をかすめた。二、三匹の蛙が驚いて池に飛び込んだ。
「なんだ、蛙か」
「そこのお方、何をしておられるのか。寺から出て行きなさい」
 大明寺の住職に咎められた大男の刺客は、悔しげに立ち去った。
「畜生。取り逃がしたか」
posted by いきがいcc at 14:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 27.鑑真和上の密航
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