2011年11月13日

連載(12)

kentosisen.jpg  (連載12)

          5.青嵐の顔(かんばせ)


 将軍阿倍比羅夫(ひらふ)は、白村江(はくすきのえ)の戦で大敗し捕虜として唐国・洛陽に連行されたが、時の宰相(さいしょう)狄仁傑(てきじんけつ)の計らいで自由の身となり、唐女玉蘭(ぎょくらん)と結ばれ、幸せな余生を送った。彼の子、楓麻呂(かえでまろ)は父の意思を継ぎ、日本への帰国を試みたが、朝鮮海峡の嵐で母親と共に非業の死を遂げた。同船の新羅(しらぎ)僧の友人・無一(むいち)が遺品の革袋を奈良、飛鳥の阿倍家に届けた。「秘色の碗(ひそくのわん)」と最古の世界地図が、比羅夫の悲願を甥の阿倍仲麻呂に伝えることが出来た。
 阿倍比羅夫の末の弟は、阿倍船守(あべのふなもり)で、その子が阿倍仲麻呂である。「仲」とは三つのうち真ん中、二番目と言う意味、「麻呂」とは「坊ちゃん」とか「何々坊」の意味であろう。現代風に言えば、さしずめ、「次郎」とか「次男坊」というところであろうか。仲麻呂は若くして神童と呼ばれ世間の評判が高かった。一族の家宝「秘色の碗」と世界地図を初めて見たのは、彼が九才の時であった。
「当家の家宝、秘色の碗について他人には、絶対に話してはならぬぞ」
 父親は息子に言い聞かせた。
 大唐国の天子しか所有することが許されない、唐皇室の秘宝「秘色の碗」が何と日本国阿倍家に秘蔵されていたのである。
 この時代、高級氏族の阿倍家といえども日常使っている器は、まだ、赤茶色の素焼きの土師器(はじき)か、せいぜい灰色の素焼きの須恵器(すえき)であった。皇族の家においても、緑や白の釉薬(ゆうやく)のかかった碗など、よほどのことがなければ手に入れることは出来なかった時代である。

 少年仲麻呂は神秘的な二つの家宝に畏敬の念を感じ魅せられた。学問をすればするほど見知らぬ遠い唐国に憧憬の想いを持つようになった彼は従兄弟宿奈麻呂や父船守の目を盗み、一人、密かに家宝を見つめたり、比羅夫の遺品の巻物を夜を徹して読み明かすことも度々あった。
秘色の碗の小宇宙は純白なのか碧色(みどりいろ)なのか。
「何と美しい器だ」
世界地図の大宇宙は天才少年の心の中で夢を果てしなく広げた。
「唐国に行きたいが、あまりに遠いなあ」
 難波津(なにわつ)の海の見える丘にたたずみ、少年はいつも夢見ていた。
「父上殿、地図では日本国は東の端の小さな丸一つですが本当ですか。日本の西にはたくさんの大きな国が描かれてある。本当にあるのなら、行ってみたい。あの地図は誰が書いたのですか。来たことがないので日本がもっと大きいことを知らないのではないですか」
 仲麻呂は父親に尋ねた。
「なぜ、日本より東には国がないのですか。東の海の果てはどうなっているのですか。この地図で蓬莱山(ほうらいさん)は何処にあるのですか。行ってみたい」
 少年は次々と疑問を持った。彼の人生はすでに宿命的であった。比羅夫の悲願は世界地図と秘色の碗を通して、甥、仲麻呂に引き継がれたのであった。比羅夫の子、楓麻呂の非業の死は報われたのだ。仲麻呂が遣唐使留学生として唐に旅立ったのは、それから八年後、十七歳の春のことであった。

 養老の遣唐使の詔(みことのり)が発せられたのは七一六年(日本 霊亀(れいき)二年)のことであった。押使(おうし)は従四位多治比真人県守(たじひのまひとあがたもり)、大使は従五位上阿倍朝臣安麻呂(あべのあそんやすまろ)がそれぞれ任命された。この遣唐使に留学生(るがくしょう)として随行したのが阿倍仲麻呂、吉備真備(きびのまきび)、僧玄ム(そうげんぼう)等であった。
 その年八月、阿倍安麻呂は平城京の宮殿から、汗をかきかき興奮して私邸に帰ってきた。安麻呂は比羅夫の息子で、楓麻呂の兄であった。比羅夫は息子の安麻呂を見ることは一度もなかったのである。
「遣唐使の大使に、元正(げんしょう)天皇より任命された」
 安麻呂は年老いた母と妻に言った。二人の女の表情は、みるみる暗くなっていった。
「お父さんが五十三年前、お前の顔も見ずに行ってしまい、二度と帰ってこなかった。まさか、お前までも、行ってしまうのではないだろうね」
 年老いた母がため息をついて言った。五十三年前、船で出発する夫、比羅夫を難波津の桜吹雪の下で見送ったことを想い出していた。若い妻は六歳の息子、宿奈麻呂の手を引き、胎内には安麻呂を身ごもっていた。
 
 当時、遣唐使の大使に任命されることは大変名誉で、適任者の選出にいつも苦労していた。日本国を代表する人物でなければならなかった。
「知性と教養に極めて優れていることは当然として、温厚沈着で、礼儀正しく、容姿端麗で威風堂々としていなければならい。全て揃っている男(おのこ)はそうそういるものではない」
 元正(げんしょう)天皇(女帝)が言った。
 しかしながら一方、常に死と隣り合わせで、当時、遣唐使で唐に渡り無事日本に帰国出来る確率は五分五分だと言われていた。
 
 最後の遣唐使大使、学問の神様で有名な、菅原道真(すがわらみちざね)は、
「命を引き替えにしてまで唐から学ぶ物は、もはやない」
 と、遣唐使の派遣中止を提唱した。唐国が滅亡したのは、その十三年後のことであったが。
 常人は遣唐使に選ばれても、諸手を挙げて喜ぶことは少なかった。位階、報酬が約束されても、選ばれた多くの人が渡航を拒否し逃亡していた。
 もちろん天皇によって任命された使命を拒否することは咎(とが)めを受けることになった。それでも、選ばれた多くの人々は、逃亡を考えた。

 阿倍安麻呂は物心ついた頃より、毎朝かかさず仏壇の前で父親の帰りを祈っていた母親の姿を忘れることがなかった。五十年間も夫の帰りを待ち続けていた、切ない女の姿であった。
 六歳の兄、宿奈良麻呂と未だ母親の胎内にいた安麻呂を置いて二度と帰ってこなかった夫を、彼女はどのように思っていたのであろうか。
「遣唐使大使をお咎めなしには辞退出来ないのですか」
 安麻呂の妻が尋ねた。
「普通では難しいことだな」
 兄の宿奈良麻呂が答えた。
「名誉なこと。任命を拝受し行かずばなるまい」
 と、安麻呂は自分自身に言って聞かせた。しばらく重い沈黙が辺りにただよった。
「よい考えがあります。代わりにぼくが行きます」
 十六歳の阿倍仲麻呂が澄み切った高い声で言った。
「お前は未だ子供だ」
 と、年老いた比羅夫の妻が遮った。
「おじさんは、大唐国で勉強して日本のためにつくしなさい、と遺言で言われました。おばさん、僕はもう子供じゃない。古人、曰く ―青春は二度来たらず 朝(あした)は一日に二度来たらず時に及(およ)んで当(まさ)に学ぶべし―」
 仲麻呂は朗々(ろうろう)と弁じた。
「甥にまで禍根を残し、あの人は罪な人だよ」
 と、比羅夫の妻は嘆息した。
「大納言殿、安麻呂殿、僕はこの話がなくても、今回の遣唐使で、留学生として唐国に勉強に行きたいと秘かに念じていました。どうかよろしくお取り計らい願います」
「次回の遣唐使まで待ったらどうだ」
「遣唐使は二十年に一度しか派遣されません。この機会を逃すことは出来ません。次回まで待てば、僕は四十歳になってしまい、帰国出来るのは六十歳になってしまう。一度しかない人生を無駄に過ごしたくない」
「そうか、遣唐使は二十年に一度か」
「歳月人を待たず。伯父比羅夫殿、従兄楓麻呂殿の悲願を誰かが叶えなければなりません。洛陽の亡山(ぼうざん)に眠る比羅夫殿も喜んでくれると思います。北海の海底に沈んだ楓麻呂殿も報われると思います」
「一生涯をかける仕事になるぞ」
「もとよりそのつもりです」
「生きて故国に戻れるかわからないぞ。覚悟はできているのか」
「生きるか、死ぬかは、時の運。死を恐れては、大事をなすことは出来ない。覚悟はとうにできています」
「後悔はしないだろうな」
「唐に学ばなければ明日の日本はない」
 阿倍仲麻呂は、中国の儒教の教典『四書(ししょ)』、『五経(ごけい)』をすでに全て暗記していて、京の街でもその神童ぶりと容姿端麗は、噂になっていた。安倍一族は立派に成長した紅顔可憐の美少年を誇りに思った。
「皆さん、私のため、阿倍家のため、そして日本国のため、僕を唐に行かせて下さい」
 阿倍比羅夫の年老いた妻は、仲麻呂の立派な成長ぶりを目のあたりにし、涙を抑えることが出来なかった。高貴な女は覚悟を決めた。青雲の志を遂げさせよう。
「あの人にそっくりだ。血は争えない。宿奈良麻呂、どうだね、安麻呂の代わりに仲麻呂に唐に行ってもらおう。お国のためだよ。あの子の宿命だよ。私も一緒に帝にお願いに行きます。あの人もきっと喜んでくれますよ・・・。あの子がいなくなることは、本当は寂しいことだがね」
posted by いきがいcc at 18:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 12.青嵐の顔
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