2011年11月12日

連載(11)

tutumi-kireji.jpg  (連載11)

 しかし、その後、北の海で激しい暴風雨に遭って船は難破し、ここに悲劇が生まれた。乗船者や水手(かこ)が衰弱で倒れ、嵐の荒波に呑まれ、次々と命を落としていった。
 当時、船には必ず海の住吉(すみのえの)神を祀った祠(ほこら)が船内に設けられ、祈祷師が船の安全を祈って乗っていた。暴風雨がなかなか鎮まらないので、半狂乱の状態で祈り続けた。
「海の守護神が怒っている。古より船に女人を乗せてはいけない。女は汚らわしい。女を生け贄にしろ。さもなくば、嵐はおさまらない。船は転覆し、たたりで皆の者が死ぬ」
 祈祷師は悪霊神が乗り移ったように絶叫した。食料も水も不足し始め、乗船者は皆、平常心を失い極限状態に陥った。
 楓麻呂はただ荒れ狂う甲板に座し、ずぶぬれのまま仏に祈りを捧げたが、嵐はいっこうに、おさまる気配はなかった。
 女の乗船は不浄で不吉だとの迷信を信じていた海の民の船長(ふなおさ)は、錯乱状態に陥って叫んだ。
「たくさんの女がこの船に乗っている。異国の女が乗っている。正体不明の化け物が乗っている。嵐が止まないのは、たたりが続くのは、こいつらがいるからだ。海の神が憤っている。こいつらを海に投げ捨てろ」
「嵐は天のなせるわざ。女人のせいではない」
 優婆塞(うばそく)が冷静につぶやいた。
「たたりはお前のせいだ。たたりはお前のせいだ」
 祈祷師が金切り声で、髪を振り乱しわめいた。
「黙りなさい。何の根拠もなくわめいても嵐はおさまらない」
 優婆塞がまた冷静につぶやいた。
 しかし、命令を受けた水手達(かこたち)は、高内三郎と息子が泣き叫ぶ前で、妻、女児、乳母そして最後には優婆塞まで、次々と荒れ狂う海に投げ捨てた。そして、最後に楓麻呂の抵抗もかいなく、母、玉蘭は海賊くずれの荒くれだった水手達によって、海に投げ捨てられそうになった。楓麻呂は母親を抱きしめたまま離れようとしなかった。
「かまわぬ、二人もろとも投げ捨ててしまえ」
 船長(ふなおさ)が命令した。
「楓麻呂、お父さんの遺言に従い、あなたは日本に行きなさい。離しなさい」
母が絶叫した。楓麻呂の一重の切れ長の目から涙があふれでていたが、折りからの嵐の雨で飛ばされた。彼は母親を抱きしめたまま、けっして離れることはなかった。
「無一殿、後を頼みます」
 狂気じみた男達の前で無一はどうすることも出来なかった
「やがて母子は波間に消えていった。
 そして十日後、嵐はおさまり、船は難破することなく、穏岐島(おきのしま)に漂着した。まさに、狂信と生け贄の地獄絵図だったが、僧無一はこの悲惨な真実を話すことは出来なかった。
            
「もしも万一何かあった時は、この革袋を兄上殿に届けて欲しいと、頼まれていました。これが楓麻呂の遺品です」 
 と、言って黒く擦り切れた羊の革袋を宿奈麻呂の前に差し出した。ズシリとかなりの重さであった。
 宿奈麻呂と船守は深く頭を下げ、受け取った。
 羊の革袋には、懐かしい父親の匂いと、まだ見ぬ弟の汗と、嵐の海の香りが混ざりあい染みついていた。その場で、堅く食い込んでいた革ひもを解くと、まず白い布袋に納められた五本の巻物が出てきた。一本を床の上に開くと、それは阿倍家の家系図であった。そこには宿奈麻呂、船守、楓麻呂、玉蘭の名前も一番末の方に書かれてあった。
「これは本当に兄貴の直筆だ」
 と、船守はじっと眺めながらつぶやいた。船守は阿倍比羅夫の一番下の弟で、その子・阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)はちょうどこの年、僧白遊(楓麻呂)の生まれ変わりのように誕生した。 
もう一本の巻物は、世界地図であった。
 残りの三本は、太く同じ形の巻物で、そこには比羅夫の筆で日記風に小さな文字でびっしりと、唐で学んだことが記してあった。
「後で、ゆっくりと読ませてもらおう」
 次に出てきたのは、ズシリと重い七本の巻物で、全て仏教教典の写本であった。
「ああ、これは僧白遊が白馬寺で書きつづった、禅宗の教典の写本です。十五歳から楓麻呂は出家し、僧白遊と名乗りました。私は白馬寺で彼と知りあい、朋となったのです。彼は聡明で崇高で、すでに洛陽の街では盧舎那仏(るしゃなぶつ)の眼をした青年僧として、民衆の間で高い尊敬を受けていました」
「何と、盧舎那仏の眼をした青年僧とな」
 兄の宿奈麻呂が言った。僧無一は宿奈良麻呂のあごと鼻筋の当たりに楓麻呂の面影を見た。
「はい。長安においても白遊の名声は高まっていた。中国、朝鮮、日本の東方の夜明けにとって偉大な人を失いました。今回の日本への旅路は、その第一歩であったはずなのです」
「私は彼より三つ年上ですが、彼を心から崇拝し、一番弟子として日本への仏教伝道の道を共に夢見ていたのですが・・・。ああ、どれだけ多くの優秀な人々が遣唐使の行き帰りで命を落したことか。特に今回、白遊を若くして失ったことは誠に大きな損失であります」
 最後に革袋から取りだされたのは銀の箱であった。
「重いな、これは一体何だろう」
 約一尺四方で、高さは約六寸ほど、色はくすんだ銀色で黒みがかり、箱の四面には彫金がほどこされていた。
「宇宙を守る動物が描かれている。南に紅い朱雀(すざく)、北に黒い玄武(げんぶ)、東に青い青龍(せいりゅう)、西に白い白虎(びゃっこ)が生きているがごとく躍動しているな。色はくすんでいるが、素晴らしい作りだ」
 ふたを開けると、紅地(くれないのじ)に唐草文様(からくさもんよう)が織られた、鮮やかな絹錦(にしき)の裂地(きれじ)に覆われていた。黄、緑、青、赤、黒の濃淡の五色で、蓮華(れんげ)、葡萄(ぶどう)、忍冬(にんとう)の連続する唐草文様であった。西域のササン朝ペルシャ、いや遠くローマ、ギリシャ、エジプトからやってきた、異国の幻想的な美の極地に魅了されるばかりであった。
 その紅地花紋錦(くれないのじかもんにしき)をそっとめくると、辺りがボーっと明るくなった。
「おお これは なんと・・・、唐の秘色の碗では・・・。幻の碗が・・・」
 と、宿奈麻呂がうなった。
「なに、秘色の碗。なんと、これが噂に聞く、唐の秘色の碗」
と、船守が体の震えを抑えることができずに、言った。
「おお まぎれもなく本物だ」
 
 一色が十色に拡散しあるいは十色が一色に凝縮して光り輝くがごとき、言葉で彩を表現することは出来ない秘色青磁(ひそくせいじ)の光がそこにはあった。紅の錦の中から現れた燦然(さんぜん)と輝く緑青(ろくしょう)の碗は宇宙を形成している。
 秘色の碗は中国皇帝専用の器である。陶器の素地に薄く灰釉(はいゆう)をかけ、約千二百度の高温で焼くと青磁ができる。五代の呉越(ごえつ)の国王銭鏐(せんりゅう)が皇帝に献上するために始めたのと言われ、原材料の成分、釉薬(ゆうやく)の配合、碗の形状、焼成技術、全てが秘密に伝授されてきた。作られた数も限定され少なく、極めて貴重なものであった。淅江省慈渓(せっこうしょうじけい)の上林湖(じょうりんこ)の辺りで生産され、何千、何万の作品の中から選び抜かれた逸品だけが皇帝に献上され、残りは全て砕いて捨てられた。一般の民が手にしたり、目にすることがないので「幻の碗」とも言われ、その美しい秘宝の名は遠く日本まで、広く知れ渡っていたが、実物を見たも人は誰もいなかった。
 青磁が中国で作成されたのは、紀元前十五世紀にもさかのぼると言われている。原始青磁が二千年以上の歴史を重ね、唐の時代に完成の域に達したものが唐の秘色であった。
 晩唐の詩人陸亀蒙(りきもう)は秘色の碗に感動し、「秘色越器詩(ひそくえつのうつわのうた)」を詠んだ。
          九秋風露越窟開 奪得千峰色来
―何年も何年も歳月を掛け、越は遂に究極の秘色、千峰(せんぽう)の色を創り出した―   
 と、詠った。

 三人は目の前の幻の碗をジッと黙って見つめて、ため息をついた。
 この秘色の碗は二個ありました。唐の高祖以来代々受け継がれ、高宗が正室の王氏に、二人の愛の、そして皇后の証として、対の一つの碗を贈った。その後、王氏は高宗の愛を失い、則天武后に皇后の地位を奪われた。
「この秘宝をこっぱ微塵に砕き捨ててやるわ」
 愛と地位を失った時、王前皇后は悔し涙で慟哭した。しかし、あまりにも美しい碗を見つめて、
「人の心は変わるが、変わらず美しいこの碗に罪はない。しかし、則天武后には死んでも渡したくない。玉蘭に託し、後世に遺そう」
 王氏は冷静になって言った。
 王氏殺害の後、則天武后は皇后の証として秘色の碗を直ちに探したが、見つけ出すことは出来なかった。王氏が虐殺される寸前に碗を託された玉蘭は、この秘色の碗をもって長安から洛陽へと馬で逃亡し、しばらくの間、比羅夫と玉蘭の下に秘蔵されていた。比羅夫が死亡し、玉蘭とその子楓麻呂が日本に行く時、玉蘭は比羅夫の遺品と共に秘色の碗を持って旅立った。悲惨なことに、親子二人は命を失ったが、
「万一のことがあったら、この革袋を奈良の阿倍家に届けて欲しい」
 と、新羅の青年僧に言い残した。彼は約束を守り、ここに、唐王朝の秘宝、秘色の碗二個の内一個が海を越えて、日本の阿倍家に届けられたのである。

 一方そのころ、唐においては、鉄の女帝、則天武后は遂に病の床に伏し、 七0五年(日本 慶雲二年)八十一歳の生涯を洛陽長生殿(ちょうせいでん)で閉じた。

 唐は、ギリシャ文化に勝るとも劣らないオリエント文化の燦然(さんぜん)たる花を咲かせ、女性開放と自由奔放の時代をもたらした。
 しかしその影に、恐ろしい近親の骨肉の権力闘争と男女関係の乱れが繰り返されていた。
 皇帝が崩御する度に、次期皇位継承をめぐり、外戚(がいせき)と宦官(かんがん)と官僚と後宮(こうきゅう)がうごめきあって陰惨な権力闘争が繰り返された。その中で、皇子はむしろ犠牲者として、担(かつ)ぎ上げられ踊らされ利用されていることが多かった。人々の間には常に誹謗(ひぼう)、中傷、讒言(ざんげん)が渦巻き、多くの罪なき者が陥れられ命さえ失った。
 李世民(りせいみん)は母の実の兄、弟を殺害し、父でもある初代皇帝高祖を幽閉して権力の座を手にいれ、第二代皇帝太宗として即位した。同じ悲劇を繰り返さないため太宗は凡庸の子を次の第三代皇帝高宗に即位させた。高宗は父太宗の愛人を自分の愛人にし、愛人は皇后を殺害しその座に就いた。これが則天武后で、彼女は権力を得るために実の子をも毒殺した。
 武后の死後、その子が第四代皇帝中宗として即位した。しかし、その妻と娘は共謀して中宗を殺害し、権力を掌握した。
 第五代皇帝の三男、李隆基(りりゅうき)が第六代玄宗(げんそう)皇帝である。玄宗は自分の息子の妻を取り上げておのれの愛人にしたが、これが楊貴妃である。何ともおぞましい時代であった。
 女達を政(まつりごと)から全て外し女禍を一掃し、貞観(じょうがん)の治を納めたのが玄宗皇帝であった。
 ―男が女を騙(だます)すことは悪いこと、しかし、男が女に騙されることは、もっと悪いこと―
 ―女が男の虜(とりこ)になってもよいが、男が女の虜になっては、政はできぬ―
 ―女は国を滅ぼす。女に溺れてはならぬ。全ての女人を政から排除せよ―
 青年玄宗皇帝が毅然として女禍を廃したが、わずか三十年後、玄宗は楊貴妃(ようきひ)の虜になり、溺れ、自ら国を滅ぼすことになった。これもまた哀れで、愚かな男の性であろうか。
「春秋の呉王夫差(ごおうふさ)は西施(せいし)に溺れ館娃宮(かんあいきゅう)を建てた。三国志の曹操(そうそう)は二嬌(にきょう)にうつつをぬかし銅雀台(どうじゃくだい)を建てた。唐の玄宗皇帝は楊貴妃にほれ華清宮(かせいきゅう)を建てた。何時の世も、男とは愚かなものよ。女により国を滅ぼすわ。傾国(けいこく)の美女とは誰が言いだしたか知らぬがうまいことを言う。俺は男でなくてよかった」
 大分、後のことであるが、ある時、深酒を飲んだ宦官高力士(かんがんこうりきし)(玄宗皇帝の側近)が阿倍仲麻呂に言った。
「禍根の芽を作ったのは高将軍、貴殿でしょう」
 仲麻呂も酔いながら言った。
「そうだ、楊貴妃を玄宗にめあわせたのは、俺の一生の不覚だった」
 彼はあっさりと認めた。
「俺に紹介しておけばよかったのだ」
 仲麻呂は調子に乗って言った。
「貴殿にめあわせるくらいなら、俺がとうに自分の女にしていたわい」
 高力士は言い返した。
posted by いきがいcc at 09:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 11.僧白遊の悲劇
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