2011年11月11日

連載(10)

nanpasen.jpg  (連載10)

 白村江(はくすきのえ)の大戦以来敵国であった唐、新羅と日本の関係は、いまだ悪く完全に修復されていなかった。
「戦後、遣唐使が派遣されるとの話は、いっこうに伝わってこないな」
 と、僧白遊は僧無一に言った。
 事実、実質的に遣唐使の派遣が再開されたのは、四十年後の七0二年(日本 大宝二年)のことであった。しかも、新羅との関係は、唐との関係以上に悪く、国交断絶に近い状況下にあった。
 古代、日本から中国への航路は、先ず筑紫(つくし)(博多)から壱岐(いき),対馬(つしま)を経て朝鮮半島南端に出た。その半島の西海岸沿いに北上し、中国遼東(りょうとう)半島の東海岸沿いに進み、渤海海峡を真っ直ぐ南下し、登州(としゅう)(山東半島)に上陸する道であった。陸伝いのこの「北路」が時間はかかるが、中国への最も安全な第一の航路であった。
 ところが、新羅との国交が悪化し、白村江の戦いの敗北で、日本は朝鮮の統治権を失い、北路は通過が難しくなった。大宝(たいほう)の遣唐使からは、九州の五島列島から直接、中国大陸揚子江河口辺りを目指して、大海を一気に西に横断する「南路」を取るようになった。当時にしてみると、大海を小舟で横断することは、極めて、危険なことであった。
白遊と無一は語り合った。
「日本に行くのには何日かかるのか」
「海流や風に恵まれれば、五日から七日で到着出来る」
「しかし、嵐で難破したり、時には遠く海南島やベトナムまで漂流することも、けっして、少ないことではないと言うではないか」
 事実、遣唐使は全部で、二十一回派遣されたが、無事全船が帰国できたのは、たったの、二回だったと言われている。それでも、日本国は先進国唐に学ぶことにどんよく貪欲であった。
 危険をも顧みず、遣唐使で中国に渡った日本人は、六千人以上いた。そしてその内、何人が無事故国の土を踏めたのであろうか。生きていたら歴史に名を残したであろう優秀な多くの人々が大海に命を落としたのだ。 
 白遊は父の遺言でもあり、より早く日本にいく方法を真剣に模索した。
「これ以上、無為に過ごす訳にはいかない。無一殿、何とか日本にいく手だてはないものですか」
 彼は焦りだした。
「白遊殿。新羅の海の民を使えば、日本に行けると思うが、何処まで、信頼出来るかわからない。やつらは何時、海賊に変身するかわからないからな」
 この時代になると、早くも朝鮮半島西南の海岸には、「海の民」が出現していた。民間の新羅船が渤海、黄海、朝鮮海峡を行き交うようになった。唐、新羅、日本が交易を始めていた。彼らは新羅人を中心とする三国の混成部隊であった。
 中国山東半島の港登州(蓬莱市)には、白村江の敗戦により唐に連れてこられた日本人捕虜が逃走し、本国への帰国を望み、各地から集まってきていた。新羅の貿易商人も舟に乗って、現れるようになった。そして、この辺りは海の民の本拠地であった。
「何時来るかわからない遣唐使を待っている訳にはいかない」
 と、僧白遊はきっぱりと言った。
 白遊と母親の玉蘭と朋友僧無一、三人は、「女は乗せないが、船賃を五割り増しで払えば考えてもいい」
 と言う船頭が率いる、海の民の新羅船に乗り込み、日本へと向かった。

 数ヵ月後、僧無一は白遊とその母の非業の死を悲しみつつ、奈良に到着することとなった。
「白遊の遺品を飛鳥の阿倍家に届けよう」
 二人に依頼された約束を守るために、新羅の青年僧無一が日本奈良の阿倍宿奈麻呂(すくなまろ)を訪れたのは、七0一年(日本 大宝元年)のことであった。比羅夫の長子である宿奈麻呂は、四十一才であった。息子は父親とは異なり、武人ではなく学者としての道を歩んでいた。同時代の数学の第一人者であった。
「阿倍宿奈麻呂(あべのすくなまろ)殿にお取り次ぎ願いたい。我は宿奈麻呂殿の弟君、阿倍楓麻呂殿の友人で、高句麗の僧無一(むいち)と申す者です」
 と、新羅の青年僧は高句麗の僧と名乗った。
「宿奈麻呂殿の弟君、楓麻呂の友人とな・・・。宿奈麻呂殿には、楓麻呂という弟君は、おりませんが」
 と、取り次ぎの老人が、怪訝な顔をして言った。
「先の、白村江大戦の日本の大将阿倍引田臣比羅夫(あべのひけたのおみひらふ)殿、戦後唐において、玉蘭(ぎょくらん)様と結ばれ二人の間に生まれた子が、楓麻呂殿と聞いております」
「なんと、して比羅夫殿はご無事か、楓麻呂とやらは今どこにおいでかの」
 身内ではないかと思われる先ほどの男が、身を乗り出して早口で尋ねた。
「ここで、お話し申し上げれば長うなります。宿奈麻呂殿にお目通りさせていただいた後、お話しさせていただければありがたいのですが」
「わかり申した。ではしばらく、お待ち下され」
 と、言って男はそそくさと姿を消し、やがて二人の男が姿を現した。
「私が阿倍宿奈麻呂です。弟のご友人とのこと、是非お話を承りたい。どうぞ奥へお入り下され。ああ、それからこちらは父比羅夫の弟君で、阿倍船守殿(あべのふなもり)です」
 その男もついてきた。座るのももどかし気に新羅の僧無一は話し始めた。
「大戦後、比羅夫殿は白村江で捕虜として囚われ、登州(蓬莱市)に上陸し、洛陽に連れてこられました。時の宰相、狄仁傑(てきじんけつ)のはからいで、何不自由なく暮らしていましたが、十年前、お亡くなりになりました。比羅夫殿は高宗皇帝の前皇后王氏の侍女玉蘭様と結ばれました。二人の間に生まれたのが楓麻呂殿です」
「そうですか、なんと、兄貴は十年前まで唐にて、ご存命であられたのか。白村江の戦いで戦死したとばかり思っていた」
 と、船守が口を挟んだ。
「唐で結婚し子供までいたとは。玉蘭さんとはどんなお方か無一様はご存知ですか」
 いつの間にか話に加わっていた比羅夫の年老いた妻が尋ねた。
「それはそれはお美しい方でした」
 と、無一は言った。
「楓麻呂殿は『二十歳を過ぎたら唐国で学んだことを日本に持って帰り、日本建国のため尽力せよ』との父親の遺言に従い、この度、親子二人と私と新羅の商船に乗り、日本国を目指したのでございます」
 新羅僧は次の言葉が、なかなか出てこなかった。しばらくの沈黙が続いた。
「して、どうされた」
 と、宿奈麻呂(すくなまろ)は覚悟を決めてうながした。
「眈羅(たんら)(済州島)から五島列島への、日本への最後の航路で嵐に遭った船は舵を失い、暴風雨にまかせて漂流しました。多くの人が死んでいったのです。楓麻呂は甲板に端座し、船の無事を祈願して昼夜読経したのですが、ある深夜、突風に吹き飛ばされ、暗黒の嵐の空に舞い上がり、白い法衣も黒い天空にかき消されたのです。母親の玉蘭は、息子が天空に消える姿を見るとなんの躊躇もなく、息子を追って大海へと身を投じました。翌日の朝、海は嘘のように静まり、紺碧の空に太陽が昇り、凪(ない)だ海面は、きらきらと輝きました。船は無事薩摩(さつま)(鹿児島薩摩半島)の海岸に漂着したのです。楓麻呂の祈りが通じたのでしょう」
僧無一は一気にまくしたてた。

 この船には楓麻呂親子の他に、唐に琵琶の音楽を学ぶために留学し、今回、日本に帰国しようとしていた高内三郎(こうちのさぶろう)とその家族計五人、それに得体のしれぬ風来坊の優婆塞(うばそく)一人が乗っていた。この髪の毛をぼさぼさに伸ばした優婆塞は白村江の戦いで、捕虜になり、奴隷として苦渋の人生を送った日本人の末裔であった。
 高内三郎は留学中美しい舞姫と結婚し、男子と女子の二人の子供をもうけた。それに乳母を連れて五人で日本へ帰国するところであった。妻は三番目の子を宿していた。乗船時は家族水入らずで、日本での幸せな生活を夢見ながら笑いにあふれていた。
「ちょうど、日本は桜が満開の季節だ。何年振りかな。今年は家族皆で花見に行こう」
「桜は本当に楽しみだわ。日本は唐より暑いの、寒いの」
皆は日本到着を楽しみに意気揚々と船中で話がはずんだ。
 優婆塞(うばそく)は正体不明の風来坊で痩せて、目だけはギョロギョロとしていた。無口でほとんど喋ることがなかった。一食に米、数粒しか食べないのに何日過ぎても飢えることがなかった。舵師(かじし)や水手(かこ)達にとって彼は不気味な存在であった。
 優婆塞は楓麻呂に言った。
「俺のおやじは、どうも、あんたのおやじの部下だったようだな」
 母が代わりに言った。
「それは奇遇ですわ。日本に行ってからもよろしくお願いします」
posted by いきがいcc at 10:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 10.僧白遊の悲劇
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