2011年11月08日

連載(6)

gyokuran2.jpg  (連載 6)

 玉蘭が長安を去ってから間もなく、王皇后と簫淑妃(しょうしゅくひ)は廃され、武昭儀が皇后に冊立(さつりつ)された。かっての恋敵二人は共に幽閉された。高宗は憐れみ、時々お忍びで面会に行った。
「天子様、私たちは何も悪いことはしていません。このような暗い汚い牢に押し込めるとは、あまりにもひどいではありませんか。どうか早く助けて下さい」
 二人は涙ながらに訴えた。光りの当たらない、あまりにも汚い牢屋の中の変わり果てた二人の美女の姿を不憫(ふびん)に思い、高宗は約束した。
「これはあまりにも酷(むご)い。寝屋を共にしたお前達ではないか。朕が助けてやろう」
 則天武后はこれを知り、嫉妬に激怒した。飽くなき女の性(さが)の恐ろしさであった。直ちに二人は牢屋から引きずり出され、両手、両足を切断され、大きな酒壺に放り込まれた。
「うわばみ女にふくろう女め。はらわたまで酔わせておやり」
 則天武后が吐き捨てるよに命令した。
「そこまでせんでもよいであろうが」
 と、言う皇帝の言葉などにもはや聞く耳を持っていなかった。
「あの世から化けて出てやるから覚悟おし。はしため女が」
 王氏は観念し黙っていたが、簫淑妃(しょうしゅくひ)は髪の毛を振り乱し、ものすごい形相をしてわめきたてた。その話を耳にした玉蘭は、そのまま居座っていたら巻き添えをくい、皇后と同じ運命をたどったであろうと思うと背筋がゾッとした。それは六五五年(日本・斉明元年)十一月の寒い日の出来事であった。

 さて、唐王朝では高祖の時代から受け継がれてきた「秘色の二碗(ひそくのにわん)」を所有していることが皇帝と皇后の証であった。
「高宗殿。秘色の碗が一つしかありませんが、もう一つはどうなされたのですか。
あなたの分はありますが、私の分がありません」
「余は知らぬぞ」
「うわばみ女の王氏(前皇后)に与えたのですか」
「王氏に与えた覚えなどない」
 と、高宗はとぼけてしらを切った。
 両手、両足を切断し、酒壺に放り込んで虐殺した後、すぐに、前の王皇后の局を片っ端から引っ掻き回して探したが、「皇后の碗」を見つけ出すことはついに出来なかった。

 玉蘭が比羅夫にこの事件のことを話し、自分の身の上をようやく明かしてくれた。それは玉蘭の比羅夫に対する真実の愛が芽生えた時であり、彼女の甲斐甲斐しい助けにより、心身共に病んでいた比羅夫が元気になったのも、ちょうど、そのころであった。玉蘭が小喜を殺し長安の街から姿を消してから八年がすでに経っていた。過去を持つ女は、ようやく過去を語った。そして過去を忘れようとしていた。

 武后が皇后になってからは政治の大権は武后に移り、高宗は傀儡(かいらい)の人となった。人々はこれを「垂簾(すいれん)の政(まつりごと)」と言い、高宗と武后を「二聖(にせい)」とも呼ぶようになった。
「父、太宗の妻は、立派な皇后であったと聞く」
 高宗は自分のふがいなさを棚に上げて、臣下にため息ながらにつぶやいた。
「太宗が政治について、皇后の意見を聞いても何も答えなかった」
「貴殿(あなた)は大唐国の皇帝閣下で聖人君子です。思うとおりに政(まつりごと)をして下さい。了見の狭い女が口を挟むと、ろくなことはありません。外戚(がいせき)(妻側の一族)がはびこることは、政治の乱れの初めです。牝鶏(めんどり)があしたを告げると朝政(ちょうせい)が乱れます」

 長い歴史で女は常に隷属的で、人格が認められることは少なかった。女が名実共に国家権力を握って天下を取り、専制君主として君臨することは、歴史上、極めて例外的でまれなことであった。しかし、なぜか七世紀半ばから八世紀半ば東方の諸国は、女の時代であった。
 胸を大きく露出した衣服をまとい馬に乗る女達は、女性開放の唐を象徴する。彼女達が東洋に素晴らしい文化国家を誕生させ、繁栄を極めさせ、比類なき高度な文化の花を咲かせたのであった。
 当時世界に君臨した大唐国の則天武后(そくてんぶこう)こそ、古今東西を通じて実質的に権力を握った随一の女傑であった。身分の低い一介の女から、自身の色香と才覚で天下の最高権力を手に入れ、自身の国を造ってしまった。高宗の寵愛を一身に受けるため前皇后を陥れ、殺し、皇后の地位を奪って手に入れた。更なる権力を手に入れるため、夫である高宗を廃し、実の子を殺し、自分に逆らう大臣を殺し、最高権力者として大帝国に君臨したのである。
 六六四年(日本 天智三年)からは実質的に、彼女が最高権力者となった。六九0年(日本 持統四年)には唐を廃して彼女の国、「周」を興した。武后が死去する七0五年(日本 慶雲二年)までの約四十年間権力の座にあった。
 年が老いても、妖僧薛懐義(ようそうせつがいぎ)や、美青年の兄弟、張易之(ちょうえきし)と張昌宗(ちょうそうしょう)との愛欲生活を欲しいままにした。偽坊主、薛懐義は白馬寺の僧都(そうず)に収まり、武后は時々白馬寺を訪れ男に密会した。
「今日は白馬寺に詣(もう)でるぞ」
 宮廷内を我が物顔で肩をそびやかし、闊歩している張兄弟を見て、官吏や女官達は「五郎と六郎が行く」と陰でささやいた。
「太宗には三千人の後宮がいた。則天武后に十人の男妾(だんしょう)がいたって何もおかしくはない。宋王朝の山陽公主(さんようこうしゅ)に比べれば知れたものよ」
 と、則天武后の佞臣(ねいしん)達はうそぶいた。
 唐の前の国家は「随」であり、随の前は「南北朝」であった。その宋王朝の五代皇帝に劉子業(りゅうしぎょう)がいた。彼は皇帝になり、他の皇帝と同様何百、何千人の後宮を侍らせていた。それを見て皇帝の姉、山陽公主は弟に言った。
「あなただけそんなにたくさの美女を持つなんて狡いわ。私にも若い、いい男を世話して」
 皇帝は笑ってうなずき、国中から立派な若い美男をたくさん探し出させ、姉の要求を叶えた。姉は三十人の男妾(だんしょう)を侍らし、毎夜男を弄(もてあそ)び、満足した。これに比べれば則天武后の男の数は知れたものであった。

 日本でも西暦六四二年から七七0年の半分以上の期間、七人の女帝によって統治されていた。その時期は日本建国の黎明期であった。以後、今日に至るまで、これほど多くの女帝が政にかかわったことはなかった。

―大化改新を断行し、国家存亡にかかわる朝鮮半島派遣を決定、指揮したのは斉明(さいめい)、皇極(こうぎょく)女帝であった。彼女は二度皇位に就いた―
―おのれの意志で権力を欲して即位した日本最初の女帝は持統(じとう)天皇と言える。彼女が女帝に即位した年は、奇しくも則天武后が即位した歳と同じであった―
―七一0年(日本 和銅三年)平城京遷都の大事業を断行したのは元明女帝(げんめい)であった―
―大型船四隻に五五七名を乗せた過去に類のない大がかりな遣唐使の派遣を決行したのは七一七年(日本 養老元年)、元正(げんしょう)女帝であった―
―七五三年(日本 天平勝宝三年)東大寺大仏の開眼供養を挙行したのは、実質的には孝謙(こうけん)女帝であった。藤原仲麻呂の朝鮮討伐の暴挙をも阻止した。未婚の孝謙天皇が藤原仲麻呂や道鏡(どうきょう)との愛欲に溺れた様は、則天武后と薛懐儀(せつかいぎ)を思い起こさせた―
「持統女帝と孝謙女帝を足すと中国の則天武后に勝るとも劣らずだ」
 と、言われた。女帝達は戦争を嫌い、文化国家を樹立する大事業に貢献した。

 当時、世界的文化国家を東洋に興したのは女の力であった。東方の夜明けは女によって開かれたのである。
タグ:女帝
posted by いきがいcc at 21:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 6.女帝則天武后の陰謀
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