2011年12月14日

連載(36)

kennan-haiya.jpg  (連載36)

 仲麻呂は阿環のために茶も持ってきていた。茶は漢方薬で、当時、万病に効く薬であった。
「阿環、茶を毎日飲めば必ず元気になるだろう」
「はい」
 仲麻呂は長安で湖州紫笋(こしゅうしじゅん)の新茶を手に入れてきた。阿環は茶を入れる仲麻呂の後ろ姿をジッと眺めていた。夏の夜の古寺に静謐(せいひつ)なひとときが流れた。
「お茶は身も心も癒してくれるわ」
 仲麻呂は、毎日、阿環のため茶を飲ませ、自分も飲んだ。そのため阿環は日に日に元気になった。時に、仲麻呂五十七歳、楊貴妃三十九歳であった。まだ安史の乱は、完全には治まっていなかった。仲麻呂は楊貴妃を最初に見初(みそ)めてからちょうど二十年後、遂に愛が結ばれた。

 この年の秋、剣南の廃屋をあとにし、二人は長安の南に横たわる終南山(しゅうなんざん)の麓に庵(いおり)を構えることにした。二人の住みかは長安の都からわずか二、三十キロしか離れていなかったが、まるで別世界のように自然の静寂に包まれていた。
 終南山の麓を通り抜ける秋の夜風が、抱き合った熱い二人の体を通り抜け、開ききった南の窓から北の窓に吹き抜けていった。色づいた柿の落葉で庵の周りは埋め尽くされた。阿環の肌は柔らかく弾力的であった。強く抱きしめても突き当たることがなく、柔らかく押し返してきた。その感覚は遠い少年時代を想い起させた。仲麻呂は少年時代、奈良飛鳥の畝傍山(うねびやま)を遊び回っていた。秋の日、道から外れて、落ち葉舞い散る林の中を歩くことが好きであった。誰も通ったことのない道を歩くとき、足の裏を通して感じる母なる大地は、突き当たることなく弾き返してくる感触があり、柔らかに吸収し、抱きしめてくれるようでもあった。あの言い表しようない気持ちよい感覚であった。それは天上を歩いているようでもあり、神の裳裾(もすそ)に触れているようでもあり、母に抱かれているようでもあった。毎年、新たに積もった落葉は、光りと雨と風により、大地を優しく包み込んでいた。

「玄宗上皇が蜀から長安に戻られた」
 仲麻呂が阿環と一緒になって一年半後の正月のことであった。
「楊貴妃はもうこの世にはおりません」
 阿環はきっぱりと答えた。ぼんやりとした影絵のように、全てが遠い昔日の色あせた出来事のように思えた。

 さて一方、日本国には、唐の激しく変化する情勢が渤海国(ぼっかいこく)経由でいち早く刻々と入ってきた。
「藤原清河殿と阿倍仲麻呂殿が遣唐使で日本帰国時、遭難にあったが、何と無事生きて長安に戻った」
「安史の乱により洛陽、長安が陥落し、二年前、玄宗皇帝が蜀の国に落ち延びた」
 これらの情報は、かなり正確に早く、渤海国から帰国した遣渤海使によって伝えられた。それは折しも安禄山の反乱が治まった直後、七五八年(日本 天平宝字二年)のことであった。
 反乱軍安禄山の本拠地は、渤海国のすぐ隣、平廬(へいろ)(沈陽(しんよう))であったため、情報が早いどころか渤海国は、危機感が強かった。
「安禄山は西方の唐軍の抵抗が強ければ、矛先を変えて東方に攻めてくるであろう、渤海国や日本に侵略してくる可能性も大きい」
 と、遣渤海使が報告した。
「孝謙(こうけん)天皇様、阿倍仲麻呂が予言していた通りだ。大唐国の崩壊がこんなに早く、もろいとは思わなんだが」
「藤原仲麻呂(恵美押勝(えみのおしかつ))殿、日本の守りは大丈夫ですか。安禄山がそう易々と日本にまで、攻めてくることはないとは思うが」
 女帝が藤原仲麻呂に確かめた。
「守りは万全ですよ。ところで、二人とも長安に奇跡の帰還を遂げたことを聞きびっくりしました」
「何と二人とも、ご存命とは驚きましたわ。うれしいことですね」
「直ちに迎えの使節団を派遣させよう」
 時の権力者藤原仲麻呂は使節団派遣を即断した。
「しかし、現在、大唐国は戦禍にまみれ混乱しており、遣唐使を派遣することは大変危険です。天子は蜀に落ち延び、長安にはいません。国交断絶の新羅に行くことも出来ません。しばらく様子を見たらどうでしょうか」
 遣渤海使(けんぼっかいし)は中国の現状について報告した。
「危険であることはわかっている。しかし、二人の生存を知りながら迎えの使節団を出さないわけには行かない。遣渤海使を派遣し、渤海国から陸路長安に行かせよ。同時に、唐の動向をよくその目で確かめさせろ」
 藤原仲麻呂がただちに命令した。
「天は我に味方した。機会到来だ、まず渤海国と直ちに軍事同盟を結ぼう。そして、一気に新羅を攻めるぞ。急がなければ」
 藤原仲麻呂は意気込んで言った。二人の救出も望んでいたが、朝鮮討伐の千歳一隅好機到来と興奮した。
「確かに、唐国が混乱している間に新羅討伐すれば、新羅は唐国の援助を得ることが出来ない。新羅一国であれば、日本と渤海が挟み撃ちすれば十分に勝算はある。一時的には勝利を得るであろうが・・・」
 女帝もそう思った。しかし、女帝は戦争を好まなかった。
「この機会を逃したら新羅を討伐することは出来ない」
 藤原仲麻呂は断定した。
「一時的に日本国は新羅を征服することが出来るかもしれません。しかし、何年持ちこたえられるでしょうか。未来永劫(えいごう)に日本が朝鮮を支配など出来ず、必ず中国を巻き込むことにもなろう」
 と、天下の情勢を知っている吉備真備(きびのまきび)が天皇に奏した。
 孝謙女帝と太宰府(だざいふ)にいた真備は朝鮮討伐に反対であった。
「藤原仲麻呂の朝鮮討伐を、命を懸けて阻止せねばならぬ。俺の最後の仕事だ」
 真備は自分自身に言い聞かせた。
「真備殿、頼みますよ。日本を滅亡に追いやることは出来ません」
「そうでございます。阿倍仲麻呂との約束もあります」
 六十五歳の真備が動いた。

「そろそろ孝謙天皇に下りてもらい、大炊王(おおいのおう)に即位させよう」
 藤原仲麻呂はうそぶいた。美形の裏に男の野望が見え隠れした。
「あの男の愛は本物ではなかったのか。権力の座を手に入れてからは、だんだん冷たくなり妾(わらわ)から遠のいていったわ」
「女帝では戦争が出来ぬ」
「利用だけして捨てる気か。偽りの愛か。そうはさせぬわ」
 二人の間は急速に冷え、険悪になっていった。
 七五八年(日本 天平宝字二年)八月孝謙天皇が譲位(じょうい)し、大炊王(おおいのおう)が淳仁(じゅんにん)天皇として即位した。藤原仲麻呂は自分の独裁体制を整えるには孝謙女帝が邪魔になってきた。淳仁天皇は藤原仲麻呂の傀儡(かいらい)にすぎなかった。いずれこのような時が来るときのために自分の邸宅、田村第(たむらだい)において養育してきたのであった。

翌年、三月、遣唐使大使高元度(こうげんたく)と遣渤海使大使内蔵全成(くらのまさなり)が任命され、使節団が戦禍の下、強引に派遣された。

大使 :高元度  (迎前入唐大使(げいさきのにっとうたいし))
判官 :内蔵全成 (遣渤海使大使)
録事 :羽栗翔(はぐりのかける)

「内蔵(くら)殿、渤海国との軍事同盟締結を今度こそ必ず頼むぞ。急ぐんだ」
「高元度殿、戦時下の極めて危険な派遣だが藤原清河殿、阿倍仲麻呂殿の救出よろしく頼む。また安史の乱後の、唐の国情を掴んでこい」
 総勢百二十二人であった。この使節団の録事として羽栗翔が同行していた。
「それから美しい舞姫を連れて行け」
「舞姫を、なぜですか?」
「軍事同盟を結ぶための貢物だ」
 安禄山の侵略に対して、日本と渤海国は同盟を結び共に戦おうとの密約を携えて、内蔵全成(くらのまさなり)は危険を冒して渤海国へ渡った。

 一方、藤原仲麻呂(恵美押勝)は日本国内において、直ちに行動を起こし着々と事を進めた。
「太宰府に新羅討伐前線基地として軍事大本営を設ける。兵隊、馬、武器を揃えろ」
 造船の命令を続けて出した。
「直ちに、山陽、山陰、北陸、南海の諸国に五百隻の軍船を建造させろ」
 七六一年(日本 天平宝字五年)の十一月、新羅討伐軍がついに結成された。その陣容は次の通り三軍により構成された。

   東海道 藤原朝狩(あさかり)将軍   軍船百五十隻 兵一万六千
   南海道 百済王敬福(けいふく)将軍  軍船百三十隻 兵一万三千
   西海道 吉備真備(きびのまきび)将軍   軍船百三十隻 兵一万三千
   合計           軍船四百十隻 兵四万二千

「太宰府で新羅討伐に反対しよる吉備真備を、討伐軍の大将にしてしまえ」
「知らぬ間に、俺を新羅討伐三軍の大将に選ぶとは敵もさるもの」
「天皇の新羅討伐の詔(みことのり)が発せられれば、いつでも朝鮮に出陣できる用意が出来た」
 権力を掌握した紫微内相(しびないしょう)は、ただ、おのれの野望を遂げんがために盲目になっていた。
「これは大変なことになってきたわい。まさに日本存亡の危機だ」
 真備は腹を決めた。
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連載(37)

genbu.jpg  (連載37)          

            15.秘色の碗

 一方、高元度(こうげんとく)は七五九年の暮れ戦禍をくぐり抜け無事長安にたどり着いた。
「藤原清河殿、阿倍仲麻呂殿、ご存命で何よりでございます。天皇、藤原仲麻呂以下朝廷の皆様がお二人のご無事を心から喜んでおられます」
「遠路はるばる危険を冒してかたじけぬ」
「平城京の人々は二人が生きていたと知って喜びで沸き返っておりますよ。さあ、一緒に日本に帰りましょう」
 無事長安に到着した高元度が言った。
「せっかく遠路はるばる来てくれ申しにくいことであるが、高元度殿、私も、もう六十三になる。長安は奪回したとはいえ、この戦時下に陸路、敵の本拠地を経由して、新羅を越え、渤海国経由で、日本国に帰ることは大変至難で、自信がない。妻と子供もいることだし、このまましばらく長安に残って様子を見たい。仲麻呂殿、貴殿はどうなさる」
「私も長安に残りたい。現状では日本への海路はもちろん、陸路渤海国まで行き着くのも至難の業だ。清河殿が長安におるのであれば心強い」
「確かに、日本から来るのにも大変難儀をしました。中国東北部は安禄山の軍隊であふれており、街は戦争で破壊され、治安は乱れ、女、子供を連れての旅は大変危険です。しばらくここで様子も見ざるを得ないでしょう」
「では、私が長安に残って二人にお仕えしましょう」
 と、羽栗翔(はぐりのかける)が言った。

「ところで高元度殿、吉備真備殿と大伴古麻呂殿はお元気ですか?」
 阿倍仲麻呂が懐かしそうに尋ねた。
「真備殿は中央でご活躍するべきお人ですが、太宰少弐(ださいのしょうに)に任ぜられ太宰府に追いやられました」
「そうか、真備殿は太宰府におるのか。藤原仲麻呂殿とは馬が合わぬのか」
「しかし、お元気で活躍されています」
「して、古麻呂はいかがか?」
「大伴古麻呂殿は、二年前、非業の死を遂げました」
「なんと、非業の死を」
「藤原一族の専横に憤って反乱が起きた。古麻呂殿はこれに連座した罪で死刑に処せられました。一昨年のことですよ」
「良い男を失わせてしまったの」
「無実の罪を着せられたのです」
「何故ですか」
「時の権力者、藤原仲麻呂の朝鮮討伐の野心に正面から体を張って、戦争反対を唱えた偉大な軍人だ」
 と、多くの世の人は高く彼を評価した。

「古麻呂の死を無駄にすることは出来ぬ」
 阿倍仲麻呂は心に言い聞かせ、壮年のころのように立ち上がり心が奮い立った。

 阿倍仲麻呂は長安にあって直ちに動いたのであった。唐、渤海、新羅そして日本太宰府の吉備真備らと連絡をとった。唐からは使者を日本に派遣し「日本が新羅を攻めたら唐も日本を攻めるぞ」と強硬政策で脅かした。
 渤海からは「専守防衛に徹する。侵略のための軍事同盟は結ばない」と平和外交に徹した。
 新羅からは使節団をおくり込み、「日本国天皇に膨大な貢ぎ物を献じる」と懐柔策に打って出た。

 阿倍仲麻呂は日本人ではなく大唐国の国際派高級官僚として、唐国のみならず、新羅、渤海においても彼の名とその人徳は高く評価されていた国際人であった。阿倍仲麻呂は東洋の平和のために奔走したのであった。

 新羅討伐主戦論者、藤原仲麻呂は正一位太政大臣(だじょうだいじん)となり、権力を集中し朝鮮討伐の最後の仕上げを立て続けに押し進め、淳仁天皇に朝鮮出兵の詔を出させようとしていた。
 一方、長安の阿倍仲麻呂と太宰府の吉備真備は孝謙上皇を通して朝鮮出兵を阻止すべく激しく動いていた。
 そしてついに、孝謙上皇と淳仁天皇の対立、不和が顕在化した。両者の間がしだいに険悪とり、遂に七六二年両者は破局を迎えることになった。
「今より政(まつりごと)に関して、祭祀(さいし)など小事は淳仁が行い、国家の大事と賞罰は朕が行う」
 権力の実権は女帝孝謙上皇が掌握した。それは孝謙上皇と藤原仲麻呂との対立に他ならなかった。それは藤原仲麻呂の権勢が頂点を下ることになったのである。
「淳仁天皇、朝鮮出兵は許さぬ。藤原仲麻呂の暴走を抑えねばならぬわ」
 女帝はきっぱりと言った。男女の愛が憎悪に代わっただけではない。阿倍仲麻呂と吉備真備の戦争回避の努力が実ったのであった。
「朝鮮出兵は認めません。討伐軍は直ちに解散せよ」
「なんと、この期におよんで解散せよと」
「日本存亡の危機を救わねばならぬ」
 吉備真備が言った。
「藤原仲麻呂よ。なんじは枯れ草の松明(たいまつ)をもって、風に向かって走っているようなものだ。愚か者よ。その炎はなんじの髪を焼き、手を焼き、腕を焼き、体を焼き、そして、やがて国を焼くであろう。すみやかにその欲望の炎を手放せ。投げ捨てなさい」
 孝謙女帝は藤原仲麻呂を激しく叱責した。
 伊勢神宮に朝鮮出兵の成功を祈願し、天皇の詔を待っていたが、ここに三軍、五万の兵士、五百の軍船の朝鮮討伐軍は一度も出兵することなく幻の討伐軍となったのである。
 そして、窮地に追いやられた藤原仲麻呂は兵を挙げ謀反を起こした。恵美押勝(えみのおしかつ)の乱である。これを鎮圧したのが日本一の軍師、吉備真備であった。日本存亡の危機は救われたのであった。

「阿環(あかん)。昨年、王維(おうい)が逝き、今年は玄宗上皇、粛宗(しゅくそう)皇帝、高力士、李白の四人が立て続けに亡くなられた」
「あなたのお仲間が次々にお亡くなりになり淋しいことですね」
「未だ、元気なのは私と清河殿だけになってしまった」
「でも、皆さん長寿を全うされましたわ。昔から七十まで生きる人はほとんどいませんもの」
「人生七十古来まれなり・・・と、誰かがうたっていたわい」
 玄宗皇帝は七六二年(日本 天平宝字六年)に崩御した。子の粛宗も玄宗の死後十三日後、続いて亡くなった。友人宦官高力士も玄宗皇帝の死を追って同年、自らの命を絶った。青春を共に語った同じ年で、進士の同期生の詩人王維もその前年にすでに亡くなっていた。李白も玄宗皇帝と同じ年この世を去っていた。
 共に生きてきた多くの仲間、朋友と別れ、阿倍仲麻呂は寂しく終南山の麓で阿環と共に暮らしていた。かって日本への帰国の途遭難し、共に漂流の末、苦労をともにし生還した藤原清河だけがいまだ健在であった。

「秘色の碗・・・。秘色の碗をお前に・・・。阿環」
 阿倍仲麻呂は七七0年(日本 宝亀元年)正月、最後の言葉を残し、この世を去った。最後の官職は安南節度使(あんなんせつどし) 正三品であった。それは名誉職で阿環と二人で、終南山にて余生を送った。死後その名誉をたたえ、代宗皇帝は路州大都督(ろしゅうだいととく)従二品を追贈した。藤原清河も阿倍仲麻呂の死を目の当たりにし、一人娘を残し、後を追うようにして同年に亡くなった。杜甫(とほ)もこの年に亡くなった。時に、阿倍仲麻呂七十歳、藤原清河七十五歳の長寿を全うした。一時代が、盛唐は終わった。
 
 仲麻呂は日本遣唐使派遣団を入唐の度、親身になって世話をした。日本と朝鮮あるいは中国をも巻き込む世界戦争を回避するために奔走した。もしあの時、戦争を起こしていたら、今日の日本国は存在していなかったであろう。
 玄宗皇帝はもちろんのこと、唐の高官、知識人、文化人の多くの友人達、楊貴妃、王維(おうい)、李白(りはく)、高力士(こうりきし)、鑑真(がんじん)、思託(したく)等と文化、歴史、宗教、政治について共に語り日中の大きな架け橋となって一生を終えた。日本人の心の原型を作り上げた漢字、仏教、儒教はこの時代これらの人々によって中国からもたらされたのである。仲麻呂は生涯私利私欲に走ることない清廉潔白な高官であった。子孫に財産を残すことはなかったが、世にその名を残した。

 阿倍仲麻呂が唐国で亡くなってから七年後のことであった。七七七年(日本 宝亀(ほうき)八年)の遣唐使節団が入唐した。

大使 :佐伯宿禰今毛人(さえきのすくねいまえみし) 正四位下 仮病を使い辞任
副使 :小野朝臣石根(おののあそんいわね) 従五位上(大使代理)
判官 :大伴継人(おおとものつぐひと) (大伴古麻呂の子)
録事 :羽栗翼(はぐりのつばさ) 外従五位下(羽栗吉麻呂(はぐりのよしまろ)の子)

 大伴継人は、かって唐の朝賀の席で新羅と席次を争った、また鑑真和上日本招聘に尽力した大伴古麻呂の息子であった。
 羽栗翼は阿倍仲麻呂の兼従(けんじゅう)(従者)として随行した羽栗吉麻呂の息子である。吉麻呂は唐国の女と恋をし結ばれ、二人の子供翼(つばさ)と翔(かける)をもうけた。外従五位下に昇進し准判官(じゅんほうがん)として四十三年振りに生まれ故郷、唐に帰ってきたこの時、翼五十七歳であった。羽栗翼にとって大きな喜びが二つあった。父の主人で幼少時代可愛がってくれた名付け親の仲麻呂に、再会できることであった。もう一つは七五八年(日本 天平宝字二年)藤原清河、阿倍仲麻呂を迎えに行ったまま日本に帰らず、そのまま長安に留まって二人に仕えている弟、翔に十九年振りに逢えることであった。しかし仲麻呂、清河二人ともすでに故人となっていた。
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2011年12月15日

連載(38)

book.jpg  (連載38)

「羽栗殿、我は阿倍仲麻呂殿の墓前に詣(まい)ろうと思うが、貴殿も一緒に行かぬか。親父がいつも、阿倍仲麻呂はいい男だったと言っていた」
 と、大伴継人が誘った。
「一緒に詣ろう。父も、よい主人に恵まれて本当にしあわせだったと言っていました」
「我が父が謀反の汚名を着せられ非業の死を遂げたのは、阿倍仲麻呂殿との約束をまもり、新羅との戦を避けるためだったのだ」
 二人は終南山の仲麻呂の墓を訪れ、墓前に花を捧げた。それは仲麻呂がこの世を去ってから七年後のことであった。茫々と荒れ果てた終南山の廃屋(はいおく)に仲麻呂の妻一人が墓を祀(ま)っていた。背丈以上に伸びた白い枯れ草を踏みしめ歩くと、草木の折れる乾いた音が荒野に響き渡り、足もとには小さな野路菊(のじぎく)の花が咲き残っていた。一尺五寸(約四十センチ四方)の小さい石の墓誌が埋まっていた。墓碑には次のように刻まれていた。

― 朝衡ここに眠る 胸中灑落(しゃらく)なること光風(こうふう)霽月(せいげつ)の如し ―

「灑落(しゃらく)とは?」
「超越していて、こだわりがないことだ」
 と、翼(つばさ)が継人(つぐひと)に教えた。
「光風とは?」
「風が吹いて遠くから見ると、それが草木に当たって光を発するような綺麗なさま」
「霽月(せいげつ)とは?」
「晴れわたった月よ」
「心の中がまことにあっさりして、晴れわたる月の下、風に吹かれて美しく光る草木のようだ」
 誰が阿倍仲麻呂を称えた言葉であろう。誰か定かではない。

 妻は唐女で得度し尼僧として、阿倍仲麻呂の菩提を祀っていた。子はいなかった。
「遠路はるばる朝衡をお詣(まい)りしていただきありがとうございます」
 と、妻女が礼を述べた。
「ご妻女は本当に美しい人ですね。驚きました」
 大伴継人が羽栗翼にささやいた。
「本当に若く美しい。仲麻呂殿も美男子だったからね」
 羽栗翼が昔を思い出して言った。
 そしてまた、二人は藤原清河を訪ねた。清河もすでに七年前、阿倍仲麻呂と同じ年に他界していた。清河を迎えに来て、そのまま清河に仕えた、弟の羽栗翔に逢った。
「翔、本当に元気で何よりだ」
「ひさしぶりです。兄上も元気そうで・・・」
 翔は清河の遺児一人娘の喜娘(きじょう)と夫婦になっていた。
「翔、えらい若い嫁さんを貰って幸せだな」
「兄貴、喜娘も同意してくれているので、一緒に日本に帰りたいのです」
「それはうれしいことだ」
 と、兄貴は喜んで賛成した。
「そうだ、阿倍仲麻呂の妻女にも聞いてみよう」
 羽栗翼はとっさに思った。
 仲麻呂の妻女は、すぐには答えなかった。
「ありがたいお誘いですが、お断り申し上げます」
「どうしてですか。翔と喜娘も日本へ行きますよ。一緒に行きましょう」
「皆、一緒に帰れれば本当によいのだが」
 と、大使も賛成した。
「私が行ってしまえば、あの人の菩提を誰が祀ってくれましょう」
「妻女殿、ご心配なさるな。仲麻呂殿の遺骨をもって共に日本へ行きましょう」
「あの人の遺骨と共に・・・日本へ」
「はい。仲麻呂殿は三度日本への帰国を試みましたが、悲願の帰国を遂げることが出来ませんでした」
「え・・・。三度も」
「はい。最初は七三四年(日本 天平六年)吉備真備、僧玄坊(げんぼう)等が帰国した時で、玄宗皇帝に引き留められました」
「それで二度目は七五三年(日本 天平勝宝五年)鑑真和上、大伴古麻呂が帰国した時で、遭難し藤原清河と共に船が安南(ベトナム)に漂着したのです。三度目は七五九年(日本 天平宝宇三年)高元度が迎えにきてくれたが、安史の乱が完全に平定されておらず、危険が多く帰国を断念せざる得ませんでした」
「妻女殿、どうか四度目に仲麻呂殿の悲願を叶えてあげて下さい。きっと喜んで下さいますよ」
「わかりました。では仲麻呂と一緒に日本に行くことに致します。どうぞよろしくお願いいたします」
 大使、大伴継人、羽栗兄弟は藤原清河の娘と阿倍仲麻呂の妻、二人の女を連れて唐国を後にした。
 阿倍仲麻呂の妻、尼僧は五十六歳であったが若く見えた。紫の袈裟衣(けさごろも)の下に隠されている女体は未だみずみずしい艶容(えんよう)な肢体であった。しかし、尼僧がまさか楊貴妃その人であったとは誰も知らなかった。
 遣唐使の日本への帰り船は、またもや悲劇に見舞われた。嵐に遭い舳先(へさき)と艫(とも)が真っ二つ割れ、大使を初めとして多くの人が命を失った。大伴継人は阿倍仲麻呂の妻女を抱え舳先にしがみつき、羽栗兄弟は喜娘を抱え艫を拠りどころした。二日間漂流のうえ日本に奇跡の生還を遂げた。

「長安の都にそっくりですね。本当に美しいわ」
 尼僧は初めて見る平城京を眺めながら久しぶりに晴れやかな顔をみせた。
「長安より小さいでしょう。奈良の都は長安の三分の一以下です」
 大伴継人が説明した。
「小さいとは思いませんが、一つだけ全く違う所がありますわ。奈良の都には壁がありませんね。長安の街は四方が厚い城壁に囲まれています。更に街の中は碁盤の目のように区画され、その一つ一つも四方が城壁に囲まれています」
「確かに、長安は皆二重の壁に囲まれていましたね。日本は天下の帝都長安を真似して奈良の都を造りましたが・・・」
「しかし、城壁だけは真似しなかったのですね。日本は戦争のない平和な国、うらやましいわ」

 阿倍仲麻呂の遺骨を納骨するため、尼僧は阿倍家の菩提寺(ぼだいじ)を訪問した。阿倍家の先祖をお詣(まい)りし、納骨した後、尼僧は家宝を見させて貰った。
「阿倍家の秘宝です」
「手にとっても構いませんか」
「え、どうぞ」
「ああ、秘色(ひそく)の碗(わん)だわ。なぜ日本にあるのでしょう」
 と、尼僧はびっくりし、ささやいた。
 尼僧は震える白い細い両手で、碗をそっと持ち上げ、ジッと碗を見つめていた。涙が碗に落ち、融けた水晶のように碗の表面をなめらかに覆って光り輝いた。過去の出来事が鏡のように次ぎから次ぎへと映し出され、尼僧はしばらく茫然として碗を見つめていた。
「あら、汚してしまって申し訳ありません」
 尼僧は我に返って、藤色の懐紙(かいし)であわてて碗を拭こうとした。
「お待ち下さい。拭くことはございません」
 菩提寺の住職が遮(さえぎ)った。
「家宝を汚してしまい申しわけございません」
 尼僧は深く頭をさげ謝った。
「楊貴妃様。あなた様の涙でぬれた碗ほど美しいものはない」
 住職が澄み切った大きな声で言った。
「えっ。楊貴妃様・・・。あなた様が楊貴妃様・・・」
「なんと、日本に、ほんとに楊貴妃様ですか」
 皆驚き、辺りは騒然とした。
 二十三年前に亡くなった楊貴妃の名前で突然呼ばれ、尼僧は動揺し、はっとして声のした方を見やった。
「住職様・・・」
「ああ、本当に楊貴妃様だ。昔と変わらず、お美しい。お懐かしゅうございます」
「住職様・・・。楊貴妃は二十三年前、馬嵬(ばかい)で亡くなられました」
 尼僧は落ち着いて答えた。
「それでは、あなた様はどなたですか」
「私は阿倍仲麻呂の妻、阿環でございます。あなた様は」
 尼僧はうつむいたまま尋ねた。
「仏の道とは、“苦にしない”ことです」
 住職は興奮する気持ちを抑えて静かに言った。
「ああ、あの時の若き高僧、思託(したく)様」
と、尼僧は心でつぶやき、寺を立ち去ろうとした。
「楊貴妃様。秘色の碗をお忘れです。どうぞお持ち帰り下さい」                 
 今まで黙っていた若い阿倍家の当主が言った。
「住職様。仲麻呂の御霊(みたま)をどうぞお守り下さい」
尼僧は深く頭さげ、静かに寺を去った。
 天の南のかなたより阿倍仲麻呂の声が聞こえたような気がした。
「秘色の碗・・・。秘色の碗をお前に・・・。阿環」

 俗世の人間の歴史は、はかないもの。わずか百年の間、森羅万象(しんらばんしょう)、栄枯盛衰、会者定離(えしゃじょうり)。秘宝の持ち主は、五人に受け継がれたが、すでに五人ともこの世を去った。
 この間、秘色の碗はその輝きを一時も曇らせることなく、燦然(さんぜん)と光り輝き続けてきた。底知れぬ深い青、天空の青か・・・、遙かなる緑、千峰(せんぽう)の緑か・・・。無(む)か空(くう)か、人の世の移ろいを全て包含し、昇華(しょうか)せしめる宇宙か。秘色の碗は海を渡って日本国に生きていた。

―白きこと珠(たま)のごとし、青きこと天のごとし、輝けること鏡のごとし、薄きこと絹のごとし、響くこと磐(いわ)のごとし、―
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2011年12月16日

あとがき

            あとがき

 二十歳(はたち)の春、私はブラジル大陸アマゾンに旅立った。密林を開拓し、馬に乗って大地を駆け巡り、大きな牧場を経営するためであった。マンゴーの生い茂るアマゾン河のほとりで、昇る太陽を見つめつつ、でかい夢と青春の血潮をたぎらせていた。
 あれから三十五年、五十路(いそじ)の春、私は中国大陸黄河に旅立った。サラリーマンとして、小さな工場を作るためであった。柳の風花(かざはな)が舞い散る黄河のほとりにぼう然とたたずみ、覚悟を決めた。私の人生は大陸、大河のほとりから始まり、大陸、大河のほとりで終わろうとしていた。

 中国について、もともと強い興味と深い知識があったわけではないが、心に強く残っていることがあった。学生時代、もう遠い遠い昔の話であるが、妹から、「晴夫さん、井上靖の『天平(てんぴょう)の甍(いらか)』を読んで感動したわ。是非読んで下さい」と言われた。
 私もこの本を読んで鑑真(がんじん)和上に感動した。その後、もう一度読み、中国に来て、又読んだ。読書熱心ではない私が、一冊の本を三度も読み返したのは、『天平の甍』だけであった。それほど長編でないのも幸いしたが、中国に来て最初に旅に出たのは、小説の舞台になった揚州(ようしゅう)(上海の北西)であった。

 もう一つ忘れがたい歌がある。
―天(あま)の原(はら) ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも―
 私は百人一首のこの歌が好きで、取りたい札(ふだ)として子供のころ、自分の目の前にいつも並べた。このわかりやすい歌の深い意味は知らなかった。これもたしか中学時代、親父(おやじ)か、すぐ上の兄貴が教えてくれた。
「晴夫、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は遠い昔、若くして遣唐使留学生として中国に渡って、大臣となり、立身出世した。だが二度と日本の土を踏むことが出来なかった。この歌は中国で詠んだ望郷の歌だ」
 それを聞いて、私はますます好きになった。万葉、古今集など数多(あまた)ある歌で、日本人によるこれほどスケールの大きな歌は他にはあるまい。世界を舞台に活躍した古の男の大きなロマンを今も強く感じる。大宇宙を天、月、山に託しわずか三十一文字に凝縮して歌いあげている。そして、この歌の影に大きなドラマがあったのだ。私はそこから唐の歴史にのめり込んでいった。

 六、七世紀、中国は想像を絶する、世界で最も繁栄した大帝国を築いた。それは西洋文化と言語、宗教、民族を異にする極めて高度な文化であった。原始青磁(せいじ)が二千年以上の歴史を重ねて、唐の時代に完成の域に達し、その究極が「秘(色(ひそく)の碗(わん)」である。唐王朝に伝わる秘宝が、日本国に渡っていたのである。「秘色の碗」を唐の文化、芸術の象徴としてとらえ、テーマに据えてみた。
 日本国は、先進中国に学ぶことに貪欲であった。死の危険をも顧みず、遣唐使船で二十一回、約六千人以上の日本人が奈良時代中国に渡ろうと果敢に試みた。そのうち、何人が目的を遂げ、故国の土を無事踏んだことであろう。古代人達の勇気と苦渋に満ちた物語である。
 青春の志をもって、世界の舞台で大活躍し、異国の地で死んだ阿倍仲麻呂。栄光と没落の人生を終えた大唐国の玄宗(げんそう)皇帝。光と影の孤独な生き様を送った宦官(かんがん)高力士(こうりきし)。仏教伝教のため度重なる挫折を乗り越え、六回目の挑戦で日本にたどり着いた、高僧鑑(がんじん)真和上。阿倍仲麻呂との愛に生き、日本に渡った世紀の美女楊貴妃(ようきひ)。流浪と酒の彩なす漂泊の天才詩人李白。主人公阿倍仲麻呂を中心に、中国大陸と日本国家形成の時代を背景に活躍した、唐と奈良の人々の波乱に富んだ人生ドラマを描いた。

 年を重ねてくると、たいがいのことは、だんだん忘れていく、特に新しいことは覚えられない。しかし、私にとって忘れられないもう一つの詩がある。
―おのが名を ほのかに呼びて 涙せし 十四の春に 帰るすべなし―
 少年の日々、千曲川に寝そべって、友と語らい口ずさんだ石川啄木の歌である。
 私は仲麻呂と啄木のこの二つの青春賛歌を忘れず、いくら歳をとっても青年であり続けたい。この歌を想いだすことがなくなったら、アマゾン河や黄河や千曲川どころではなく、三途の川に旅立たなければならないことを覚悟している。
 そんな事になる前、六十歳の人生の節目にこの本を書き留めておくことにした。

 最後に、中国での私の仕事を大きな気持ちで見守ってくれ、この度の出版についても大変ご理解頂いた三ツ星ベルト株式会社西河紀男社長と中国天津滞在中、三年以上に渡って毎週、唐の歴史について教授いただきました胡宝華博士に心からお礼を申し上げます。
posted by いきがいcc at 17:16| Comment(1) | TrackBack(0) | ■あとがき