2011年11月12日

連載(11)

tutumi-kireji.jpg  (連載11)

 しかし、その後、北の海で激しい暴風雨に遭って船は難破し、ここに悲劇が生まれた。乗船者や水手(かこ)が衰弱で倒れ、嵐の荒波に呑まれ、次々と命を落としていった。
 当時、船には必ず海の住吉(すみのえの)神を祀った祠(ほこら)が船内に設けられ、祈祷師が船の安全を祈って乗っていた。暴風雨がなかなか鎮まらないので、半狂乱の状態で祈り続けた。
「海の守護神が怒っている。古より船に女人を乗せてはいけない。女は汚らわしい。女を生け贄にしろ。さもなくば、嵐はおさまらない。船は転覆し、たたりで皆の者が死ぬ」
 祈祷師は悪霊神が乗り移ったように絶叫した。食料も水も不足し始め、乗船者は皆、平常心を失い極限状態に陥った。
 楓麻呂はただ荒れ狂う甲板に座し、ずぶぬれのまま仏に祈りを捧げたが、嵐はいっこうに、おさまる気配はなかった。
 女の乗船は不浄で不吉だとの迷信を信じていた海の民の船長(ふなおさ)は、錯乱状態に陥って叫んだ。
「たくさんの女がこの船に乗っている。異国の女が乗っている。正体不明の化け物が乗っている。嵐が止まないのは、たたりが続くのは、こいつらがいるからだ。海の神が憤っている。こいつらを海に投げ捨てろ」
「嵐は天のなせるわざ。女人のせいではない」
 優婆塞(うばそく)が冷静につぶやいた。
「たたりはお前のせいだ。たたりはお前のせいだ」
 祈祷師が金切り声で、髪を振り乱しわめいた。
「黙りなさい。何の根拠もなくわめいても嵐はおさまらない」
 優婆塞がまた冷静につぶやいた。
 しかし、命令を受けた水手達(かこたち)は、高内三郎と息子が泣き叫ぶ前で、妻、女児、乳母そして最後には優婆塞まで、次々と荒れ狂う海に投げ捨てた。そして、最後に楓麻呂の抵抗もかいなく、母、玉蘭は海賊くずれの荒くれだった水手達によって、海に投げ捨てられそうになった。楓麻呂は母親を抱きしめたまま離れようとしなかった。
「かまわぬ、二人もろとも投げ捨ててしまえ」
 船長(ふなおさ)が命令した。
「楓麻呂、お父さんの遺言に従い、あなたは日本に行きなさい。離しなさい」
母が絶叫した。楓麻呂の一重の切れ長の目から涙があふれでていたが、折りからの嵐の雨で飛ばされた。彼は母親を抱きしめたまま、けっして離れることはなかった。
「無一殿、後を頼みます」
 狂気じみた男達の前で無一はどうすることも出来なかった
「やがて母子は波間に消えていった。
 そして十日後、嵐はおさまり、船は難破することなく、穏岐島(おきのしま)に漂着した。まさに、狂信と生け贄の地獄絵図だったが、僧無一はこの悲惨な真実を話すことは出来なかった。
            
「もしも万一何かあった時は、この革袋を兄上殿に届けて欲しいと、頼まれていました。これが楓麻呂の遺品です」 
 と、言って黒く擦り切れた羊の革袋を宿奈麻呂の前に差し出した。ズシリとかなりの重さであった。
 宿奈麻呂と船守は深く頭を下げ、受け取った。
 羊の革袋には、懐かしい父親の匂いと、まだ見ぬ弟の汗と、嵐の海の香りが混ざりあい染みついていた。その場で、堅く食い込んでいた革ひもを解くと、まず白い布袋に納められた五本の巻物が出てきた。一本を床の上に開くと、それは阿倍家の家系図であった。そこには宿奈麻呂、船守、楓麻呂、玉蘭の名前も一番末の方に書かれてあった。
「これは本当に兄貴の直筆だ」
 と、船守はじっと眺めながらつぶやいた。船守は阿倍比羅夫の一番下の弟で、その子・阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)はちょうどこの年、僧白遊(楓麻呂)の生まれ変わりのように誕生した。 
もう一本の巻物は、世界地図であった。
 残りの三本は、太く同じ形の巻物で、そこには比羅夫の筆で日記風に小さな文字でびっしりと、唐で学んだことが記してあった。
「後で、ゆっくりと読ませてもらおう」
 次に出てきたのは、ズシリと重い七本の巻物で、全て仏教教典の写本であった。
「ああ、これは僧白遊が白馬寺で書きつづった、禅宗の教典の写本です。十五歳から楓麻呂は出家し、僧白遊と名乗りました。私は白馬寺で彼と知りあい、朋となったのです。彼は聡明で崇高で、すでに洛陽の街では盧舎那仏(るしゃなぶつ)の眼をした青年僧として、民衆の間で高い尊敬を受けていました」
「何と、盧舎那仏の眼をした青年僧とな」
 兄の宿奈麻呂が言った。僧無一は宿奈良麻呂のあごと鼻筋の当たりに楓麻呂の面影を見た。
「はい。長安においても白遊の名声は高まっていた。中国、朝鮮、日本の東方の夜明けにとって偉大な人を失いました。今回の日本への旅路は、その第一歩であったはずなのです」
「私は彼より三つ年上ですが、彼を心から崇拝し、一番弟子として日本への仏教伝道の道を共に夢見ていたのですが・・・。ああ、どれだけ多くの優秀な人々が遣唐使の行き帰りで命を落したことか。特に今回、白遊を若くして失ったことは誠に大きな損失であります」
 最後に革袋から取りだされたのは銀の箱であった。
「重いな、これは一体何だろう」
 約一尺四方で、高さは約六寸ほど、色はくすんだ銀色で黒みがかり、箱の四面には彫金がほどこされていた。
「宇宙を守る動物が描かれている。南に紅い朱雀(すざく)、北に黒い玄武(げんぶ)、東に青い青龍(せいりゅう)、西に白い白虎(びゃっこ)が生きているがごとく躍動しているな。色はくすんでいるが、素晴らしい作りだ」
 ふたを開けると、紅地(くれないのじ)に唐草文様(からくさもんよう)が織られた、鮮やかな絹錦(にしき)の裂地(きれじ)に覆われていた。黄、緑、青、赤、黒の濃淡の五色で、蓮華(れんげ)、葡萄(ぶどう)、忍冬(にんとう)の連続する唐草文様であった。西域のササン朝ペルシャ、いや遠くローマ、ギリシャ、エジプトからやってきた、異国の幻想的な美の極地に魅了されるばかりであった。
 その紅地花紋錦(くれないのじかもんにしき)をそっとめくると、辺りがボーっと明るくなった。
「おお これは なんと・・・、唐の秘色の碗では・・・。幻の碗が・・・」
 と、宿奈麻呂がうなった。
「なに、秘色の碗。なんと、これが噂に聞く、唐の秘色の碗」
と、船守が体の震えを抑えることができずに、言った。
「おお まぎれもなく本物だ」
 
 一色が十色に拡散しあるいは十色が一色に凝縮して光り輝くがごとき、言葉で彩を表現することは出来ない秘色青磁(ひそくせいじ)の光がそこにはあった。紅の錦の中から現れた燦然(さんぜん)と輝く緑青(ろくしょう)の碗は宇宙を形成している。
 秘色の碗は中国皇帝専用の器である。陶器の素地に薄く灰釉(はいゆう)をかけ、約千二百度の高温で焼くと青磁ができる。五代の呉越(ごえつ)の国王銭鏐(せんりゅう)が皇帝に献上するために始めたのと言われ、原材料の成分、釉薬(ゆうやく)の配合、碗の形状、焼成技術、全てが秘密に伝授されてきた。作られた数も限定され少なく、極めて貴重なものであった。淅江省慈渓(せっこうしょうじけい)の上林湖(じょうりんこ)の辺りで生産され、何千、何万の作品の中から選び抜かれた逸品だけが皇帝に献上され、残りは全て砕いて捨てられた。一般の民が手にしたり、目にすることがないので「幻の碗」とも言われ、その美しい秘宝の名は遠く日本まで、広く知れ渡っていたが、実物を見たも人は誰もいなかった。
 青磁が中国で作成されたのは、紀元前十五世紀にもさかのぼると言われている。原始青磁が二千年以上の歴史を重ね、唐の時代に完成の域に達したものが唐の秘色であった。
 晩唐の詩人陸亀蒙(りきもう)は秘色の碗に感動し、「秘色越器詩(ひそくえつのうつわのうた)」を詠んだ。
          九秋風露越窟開 奪得千峰色来
―何年も何年も歳月を掛け、越は遂に究極の秘色、千峰(せんぽう)の色を創り出した―   
 と、詠った。

 三人は目の前の幻の碗をジッと黙って見つめて、ため息をついた。
 この秘色の碗は二個ありました。唐の高祖以来代々受け継がれ、高宗が正室の王氏に、二人の愛の、そして皇后の証として、対の一つの碗を贈った。その後、王氏は高宗の愛を失い、則天武后に皇后の地位を奪われた。
「この秘宝をこっぱ微塵に砕き捨ててやるわ」
 愛と地位を失った時、王前皇后は悔し涙で慟哭した。しかし、あまりにも美しい碗を見つめて、
「人の心は変わるが、変わらず美しいこの碗に罪はない。しかし、則天武后には死んでも渡したくない。玉蘭に託し、後世に遺そう」
 王氏は冷静になって言った。
 王氏殺害の後、則天武后は皇后の証として秘色の碗を直ちに探したが、見つけ出すことは出来なかった。王氏が虐殺される寸前に碗を託された玉蘭は、この秘色の碗をもって長安から洛陽へと馬で逃亡し、しばらくの間、比羅夫と玉蘭の下に秘蔵されていた。比羅夫が死亡し、玉蘭とその子楓麻呂が日本に行く時、玉蘭は比羅夫の遺品と共に秘色の碗を持って旅立った。悲惨なことに、親子二人は命を失ったが、
「万一のことがあったら、この革袋を奈良の阿倍家に届けて欲しい」
 と、新羅の青年僧に言い残した。彼は約束を守り、ここに、唐王朝の秘宝、秘色の碗二個の内一個が海を越えて、日本の阿倍家に届けられたのである。

 一方そのころ、唐においては、鉄の女帝、則天武后は遂に病の床に伏し、 七0五年(日本 慶雲二年)八十一歳の生涯を洛陽長生殿(ちょうせいでん)で閉じた。

 唐は、ギリシャ文化に勝るとも劣らないオリエント文化の燦然(さんぜん)たる花を咲かせ、女性開放と自由奔放の時代をもたらした。
 しかしその影に、恐ろしい近親の骨肉の権力闘争と男女関係の乱れが繰り返されていた。
 皇帝が崩御する度に、次期皇位継承をめぐり、外戚(がいせき)と宦官(かんがん)と官僚と後宮(こうきゅう)がうごめきあって陰惨な権力闘争が繰り返された。その中で、皇子はむしろ犠牲者として、担(かつ)ぎ上げられ踊らされ利用されていることが多かった。人々の間には常に誹謗(ひぼう)、中傷、讒言(ざんげん)が渦巻き、多くの罪なき者が陥れられ命さえ失った。
 李世民(りせいみん)は母の実の兄、弟を殺害し、父でもある初代皇帝高祖を幽閉して権力の座を手にいれ、第二代皇帝太宗として即位した。同じ悲劇を繰り返さないため太宗は凡庸の子を次の第三代皇帝高宗に即位させた。高宗は父太宗の愛人を自分の愛人にし、愛人は皇后を殺害しその座に就いた。これが則天武后で、彼女は権力を得るために実の子をも毒殺した。
 武后の死後、その子が第四代皇帝中宗として即位した。しかし、その妻と娘は共謀して中宗を殺害し、権力を掌握した。
 第五代皇帝の三男、李隆基(りりゅうき)が第六代玄宗(げんそう)皇帝である。玄宗は自分の息子の妻を取り上げておのれの愛人にしたが、これが楊貴妃である。何ともおぞましい時代であった。
 女達を政(まつりごと)から全て外し女禍を一掃し、貞観(じょうがん)の治を納めたのが玄宗皇帝であった。
 ―男が女を騙(だます)すことは悪いこと、しかし、男が女に騙されることは、もっと悪いこと―
 ―女が男の虜(とりこ)になってもよいが、男が女の虜になっては、政はできぬ―
 ―女は国を滅ぼす。女に溺れてはならぬ。全ての女人を政から排除せよ―
 青年玄宗皇帝が毅然として女禍を廃したが、わずか三十年後、玄宗は楊貴妃(ようきひ)の虜になり、溺れ、自ら国を滅ぼすことになった。これもまた哀れで、愚かな男の性であろうか。
「春秋の呉王夫差(ごおうふさ)は西施(せいし)に溺れ館娃宮(かんあいきゅう)を建てた。三国志の曹操(そうそう)は二嬌(にきょう)にうつつをぬかし銅雀台(どうじゃくだい)を建てた。唐の玄宗皇帝は楊貴妃にほれ華清宮(かせいきゅう)を建てた。何時の世も、男とは愚かなものよ。女により国を滅ぼすわ。傾国(けいこく)の美女とは誰が言いだしたか知らぬがうまいことを言う。俺は男でなくてよかった」
 大分、後のことであるが、ある時、深酒を飲んだ宦官高力士(かんがんこうりきし)(玄宗皇帝の側近)が阿倍仲麻呂に言った。
「禍根の芽を作ったのは高将軍、貴殿でしょう」
 仲麻呂も酔いながら言った。
「そうだ、楊貴妃を玄宗にめあわせたのは、俺の一生の不覚だった」
 彼はあっさりと認めた。
「俺に紹介しておけばよかったのだ」
 仲麻呂は調子に乗って言った。
「貴殿にめあわせるくらいなら、俺がとうに自分の女にしていたわい」
 高力士は言い返した。
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2011年11月13日

連載(12)

kentosisen.jpg  (連載12)

          5.青嵐の顔(かんばせ)


 将軍阿倍比羅夫(ひらふ)は、白村江(はくすきのえ)の戦で大敗し捕虜として唐国・洛陽に連行されたが、時の宰相(さいしょう)狄仁傑(てきじんけつ)の計らいで自由の身となり、唐女玉蘭(ぎょくらん)と結ばれ、幸せな余生を送った。彼の子、楓麻呂(かえでまろ)は父の意思を継ぎ、日本への帰国を試みたが、朝鮮海峡の嵐で母親と共に非業の死を遂げた。同船の新羅(しらぎ)僧の友人・無一(むいち)が遺品の革袋を奈良、飛鳥の阿倍家に届けた。「秘色の碗(ひそくのわん)」と最古の世界地図が、比羅夫の悲願を甥の阿倍仲麻呂に伝えることが出来た。
 阿倍比羅夫の末の弟は、阿倍船守(あべのふなもり)で、その子が阿倍仲麻呂である。「仲」とは三つのうち真ん中、二番目と言う意味、「麻呂」とは「坊ちゃん」とか「何々坊」の意味であろう。現代風に言えば、さしずめ、「次郎」とか「次男坊」というところであろうか。仲麻呂は若くして神童と呼ばれ世間の評判が高かった。一族の家宝「秘色の碗」と世界地図を初めて見たのは、彼が九才の時であった。
「当家の家宝、秘色の碗について他人には、絶対に話してはならぬぞ」
 父親は息子に言い聞かせた。
 大唐国の天子しか所有することが許されない、唐皇室の秘宝「秘色の碗」が何と日本国阿倍家に秘蔵されていたのである。
 この時代、高級氏族の阿倍家といえども日常使っている器は、まだ、赤茶色の素焼きの土師器(はじき)か、せいぜい灰色の素焼きの須恵器(すえき)であった。皇族の家においても、緑や白の釉薬(ゆうやく)のかかった碗など、よほどのことがなければ手に入れることは出来なかった時代である。

 少年仲麻呂は神秘的な二つの家宝に畏敬の念を感じ魅せられた。学問をすればするほど見知らぬ遠い唐国に憧憬の想いを持つようになった彼は従兄弟宿奈麻呂や父船守の目を盗み、一人、密かに家宝を見つめたり、比羅夫の遺品の巻物を夜を徹して読み明かすことも度々あった。
秘色の碗の小宇宙は純白なのか碧色(みどりいろ)なのか。
「何と美しい器だ」
世界地図の大宇宙は天才少年の心の中で夢を果てしなく広げた。
「唐国に行きたいが、あまりに遠いなあ」
 難波津(なにわつ)の海の見える丘にたたずみ、少年はいつも夢見ていた。
「父上殿、地図では日本国は東の端の小さな丸一つですが本当ですか。日本の西にはたくさんの大きな国が描かれてある。本当にあるのなら、行ってみたい。あの地図は誰が書いたのですか。来たことがないので日本がもっと大きいことを知らないのではないですか」
 仲麻呂は父親に尋ねた。
「なぜ、日本より東には国がないのですか。東の海の果てはどうなっているのですか。この地図で蓬莱山(ほうらいさん)は何処にあるのですか。行ってみたい」
 少年は次々と疑問を持った。彼の人生はすでに宿命的であった。比羅夫の悲願は世界地図と秘色の碗を通して、甥、仲麻呂に引き継がれたのであった。比羅夫の子、楓麻呂の非業の死は報われたのだ。仲麻呂が遣唐使留学生として唐に旅立ったのは、それから八年後、十七歳の春のことであった。

 養老の遣唐使の詔(みことのり)が発せられたのは七一六年(日本 霊亀(れいき)二年)のことであった。押使(おうし)は従四位多治比真人県守(たじひのまひとあがたもり)、大使は従五位上阿倍朝臣安麻呂(あべのあそんやすまろ)がそれぞれ任命された。この遣唐使に留学生(るがくしょう)として随行したのが阿倍仲麻呂、吉備真備(きびのまきび)、僧玄ム(そうげんぼう)等であった。
 その年八月、阿倍安麻呂は平城京の宮殿から、汗をかきかき興奮して私邸に帰ってきた。安麻呂は比羅夫の息子で、楓麻呂の兄であった。比羅夫は息子の安麻呂を見ることは一度もなかったのである。
「遣唐使の大使に、元正(げんしょう)天皇より任命された」
 安麻呂は年老いた母と妻に言った。二人の女の表情は、みるみる暗くなっていった。
「お父さんが五十三年前、お前の顔も見ずに行ってしまい、二度と帰ってこなかった。まさか、お前までも、行ってしまうのではないだろうね」
 年老いた母がため息をついて言った。五十三年前、船で出発する夫、比羅夫を難波津の桜吹雪の下で見送ったことを想い出していた。若い妻は六歳の息子、宿奈麻呂の手を引き、胎内には安麻呂を身ごもっていた。
 
 当時、遣唐使の大使に任命されることは大変名誉で、適任者の選出にいつも苦労していた。日本国を代表する人物でなければならなかった。
「知性と教養に極めて優れていることは当然として、温厚沈着で、礼儀正しく、容姿端麗で威風堂々としていなければならい。全て揃っている男(おのこ)はそうそういるものではない」
 元正(げんしょう)天皇(女帝)が言った。
 しかしながら一方、常に死と隣り合わせで、当時、遣唐使で唐に渡り無事日本に帰国出来る確率は五分五分だと言われていた。
 
 最後の遣唐使大使、学問の神様で有名な、菅原道真(すがわらみちざね)は、
「命を引き替えにしてまで唐から学ぶ物は、もはやない」
 と、遣唐使の派遣中止を提唱した。唐国が滅亡したのは、その十三年後のことであったが。
 常人は遣唐使に選ばれても、諸手を挙げて喜ぶことは少なかった。位階、報酬が約束されても、選ばれた多くの人が渡航を拒否し逃亡していた。
 もちろん天皇によって任命された使命を拒否することは咎(とが)めを受けることになった。それでも、選ばれた多くの人々は、逃亡を考えた。

 阿倍安麻呂は物心ついた頃より、毎朝かかさず仏壇の前で父親の帰りを祈っていた母親の姿を忘れることがなかった。五十年間も夫の帰りを待ち続けていた、切ない女の姿であった。
 六歳の兄、宿奈良麻呂と未だ母親の胎内にいた安麻呂を置いて二度と帰ってこなかった夫を、彼女はどのように思っていたのであろうか。
「遣唐使大使をお咎めなしには辞退出来ないのですか」
 安麻呂の妻が尋ねた。
「普通では難しいことだな」
 兄の宿奈良麻呂が答えた。
「名誉なこと。任命を拝受し行かずばなるまい」
 と、安麻呂は自分自身に言って聞かせた。しばらく重い沈黙が辺りにただよった。
「よい考えがあります。代わりにぼくが行きます」
 十六歳の阿倍仲麻呂が澄み切った高い声で言った。
「お前は未だ子供だ」
 と、年老いた比羅夫の妻が遮った。
「おじさんは、大唐国で勉強して日本のためにつくしなさい、と遺言で言われました。おばさん、僕はもう子供じゃない。古人、曰く ―青春は二度来たらず 朝(あした)は一日に二度来たらず時に及(およ)んで当(まさ)に学ぶべし―」
 仲麻呂は朗々(ろうろう)と弁じた。
「甥にまで禍根を残し、あの人は罪な人だよ」
 と、比羅夫の妻は嘆息した。
「大納言殿、安麻呂殿、僕はこの話がなくても、今回の遣唐使で、留学生として唐国に勉強に行きたいと秘かに念じていました。どうかよろしくお取り計らい願います」
「次回の遣唐使まで待ったらどうだ」
「遣唐使は二十年に一度しか派遣されません。この機会を逃すことは出来ません。次回まで待てば、僕は四十歳になってしまい、帰国出来るのは六十歳になってしまう。一度しかない人生を無駄に過ごしたくない」
「そうか、遣唐使は二十年に一度か」
「歳月人を待たず。伯父比羅夫殿、従兄楓麻呂殿の悲願を誰かが叶えなければなりません。洛陽の亡山(ぼうざん)に眠る比羅夫殿も喜んでくれると思います。北海の海底に沈んだ楓麻呂殿も報われると思います」
「一生涯をかける仕事になるぞ」
「もとよりそのつもりです」
「生きて故国に戻れるかわからないぞ。覚悟はできているのか」
「生きるか、死ぬかは、時の運。死を恐れては、大事をなすことは出来ない。覚悟はとうにできています」
「後悔はしないだろうな」
「唐に学ばなければ明日の日本はない」
 阿倍仲麻呂は、中国の儒教の教典『四書(ししょ)』、『五経(ごけい)』をすでに全て暗記していて、京の街でもその神童ぶりと容姿端麗は、噂になっていた。安倍一族は立派に成長した紅顔可憐の美少年を誇りに思った。
「皆さん、私のため、阿倍家のため、そして日本国のため、僕を唐に行かせて下さい」
 阿倍比羅夫の年老いた妻は、仲麻呂の立派な成長ぶりを目のあたりにし、涙を抑えることが出来なかった。高貴な女は覚悟を決めた。青雲の志を遂げさせよう。
「あの人にそっくりだ。血は争えない。宿奈良麻呂、どうだね、安麻呂の代わりに仲麻呂に唐に行ってもらおう。お国のためだよ。あの子の宿命だよ。私も一緒に帝にお願いに行きます。あの人もきっと喜んでくれますよ・・・。あの子がいなくなることは、本当は寂しいことだがね」
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2011年11月14日

連載(13)

nakamaro.jpg  (連載13)

 由緒ある阿倍一族は藤原家に押され気味で、一族の長老は皆仲麻呂に将来を期待していた。
「わかり申した。まず、藤原不比等(ふひと)殿に相談して見るとしよう」
 時の権力者は、藤原鎌足の子・右大臣藤原不比等であった。当時、阿倍家も藤原家に次いで、権力の中枢近くにいた。藤原家と阿倍家は親族関係にもあり、親しい間柄であった。
 藤原不比等の孫である藤原仲麻呂(後の恵美押勝)は、阿倍仲麻呂の五歳年下で、二人は幼馴染であった。阿倍仲麻呂が遣唐使留学生に抜擢されたのは十七歳で、その時、藤原仲麻呂は十二歳であった。眉目秀麗の若き二人の貴公子はすでに威光を放ち、平城京では皇族、貴族、女官から巷にまで「二人仲麻呂」ともてはやされていた。それから三十数年後、阿倍仲麻呂は大唐国の大臣に昇りつめて中国大陸で大活躍した。藤原仲麻呂は日本国において、太政大臣(だじょうだいじん)正一位まで昇進し、時の権力者にのし上がった。
 藤原不比等にとっても、阿倍家のこの申し出に、何ら異議申し立てる理由はなかった。不比等のはからいで、天皇にお目にかかることが出来た。
「不比等殿、今日はまた何とたくさんの阿倍家の方々のお出ましじゃのう。おお、懐かしい。比羅夫殿のご内儀ではないか。ご苦労されたことであろうが、お元気で何よりだ」
 と、元正(げんしょう)女帝が機嫌よくねぎらいの言葉をかけた。
「恐れ入ります。本日、阿倍家の方々より、今回の遣唐使大使派遣御任命の件につき、お願い申し上げたき儀ありまして、まかり出ました」
 と、不比等と阿倍家の面々はかしこみ申し上げた。
「この度、弟、阿倍安麻呂遣唐使大使の大役を仰せつかり、阿倍家一族にとって、この上もない名誉、ありがたき幸せでございます。しかし、お恐れながら、私も六十の年齢(よわい)を迎え、安麻呂も五十三歳になり、私と同じく、近頃、胸の病にかかり、この度の大役、無事務められるか心配致しております。つきましては勝手ながら、後ろに控えている阿倍仲麻呂を、代わりに唐国に行かせていただければとお願い申し上げます。もちろん、大使の大役を務めることは出来ませんが、唐国にて留学生として勉学に励み、将来の日本国のお役に立ちたいと申しております」
「おお、これが噂に聞く船守殿のご子息・阿倍仲麻呂殿か。まさに青嵐(せいらん)の顔(かんばせ)。阿倍家には立派な若者がおってうらやましいかぎりだ」
「帝様、大変お久しぶりでございます。お元気そうで何よりのことです。夫の比羅夫が行ってから五十三年になります。この度、息子が行けば夫と息子の二人ともが二度と帰ってこないのではと心配です。もし、お許しいただけるならば、年寄りの代わりに若者を行かせていただければとお願い申し上げます」
「わかりました。安麻呂殿の遣唐使大使への任命は取り消しましょう。仲麻呂殿に遣唐使留学生として随行してもらうことにします。日本国にとってこんなに力強いことはない。また、私は帝であると同時に一人の女人です。比羅夫殿の妻女の気持ちはよくわかる。阿倍家から二人行ってもらうのも大儀なことだ」
 天皇が一度出した任命を取り消すことは通常あり得ず、英断だったと言えよう。
「仲麻呂殿、唐国にて研鑽に励み、将来の日本国の力になって下さい」
「天子様。ありがたきお言葉かたじけのうございます。仲麻呂いきに感じ、一生の仕事として、命を懸けます」
 仲麻呂は顔を上げ、澄み切った大きな声で答えた。その声は凛々と平城京の夏の宮殿にこだました。それに合わせて、全員が深く頭を下げた。
「おお、心強いことだ」
平城京の街には卯木(うつぎ)の白い花が咲き乱れ、宮殿にも香りがたちこめていた。

「仲麻呂はまさに楓麻呂の生まれ代わりだ」
 阿倍家の者は皆そう信じていた。
 阿倍安麻呂は任命二週間後解任され、代わりに、大伴宿禰山守(おおとものすくねやまもり)が遣唐使大使として任命された。後年、その息子大伴古麻呂(おおとものこまろ)も二度唐に渡り大活躍し、その息子もまた唐に渡り、大伴一族は三代続いて遣唐使には不可欠の存在になったのである。

押使(おうし) : 多治比真人県守(たじひのまひとあがたもり)    従四位下
大使 : 阿倍朝臣安麻呂(あべのあそんやすまろ)    従五位上(任命取消)  
大使 : 大伴宿禰山守(おおとものすくねやまもり)     従五位下(阿倍安麻呂の代わり)
副使 : 藤原朝臣馬養(ふじわらのあそんうまかい)(宇合(うまかい)) 正六位下から従五位下 不比等の子
留学生(るがくしょう): 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)
     吉備真備(きびのまきび)
留学僧: 僧玄ム(そうげんぼう)

 翌年の七一七年(日本 養老元年)元正天皇によって派遣された遣唐使一行は、過去に類のない壮大なものであった。天皇家を頂点とする中央集権の律令国家が興隆を極める中、七一0年(日本 和銅三年)元明(げんめい)天皇(女帝)による平城京遷都に続く国家的大事業であった。元正天皇は遣唐使派遣の重要性をよく理解する名君の女帝であった。
「渡来人(とらいじん)の船造師(ふなつくりし)を大金で雇い入れ、大海の嵐にもびくともしない、安全な大型船四隻を造りなさい。金に糸目を付けなくてもよい」
「天子様、大きいと言いましても、どの程度の・・・、それで四隻も・・・」
 と、船造師の統領が面食らって尋ねた。
「船の長さ十丈(三十メートル)、幅二丈五尺(八メートル)、帆の高さ十丈で百五十人は乗れる船です。四隻ですよ」
「百五十人乗りの船四隻ですか。えらいことだ」
 統領は目を丸くして驚いた。
「そうです。陰陽生きるか死ぬかは、神のみぞ知る、時の運は五分五分です。四隻でいけば二隻は唐国にたどり着く。二隻で戻れば一隻は日本に帰り着くであろう」
 当時、日本には百人以上乗れる船など存在しなかったし、見たこともなかった。
「従来は一隻か二隻であったが、これ以降、遣唐使は四隻の大船団とする」
 女帝は詔を発した。
 
 未だかって見たこともない大型新造船が四隻、木の香を辺り一面にただよわせ、難波津の浜へ雄々(おお)しい姿を現した。他、九隻の船が送迎のため、四隻の大型船を取り囲んでいた。各船は二本のマストを持ち、メインマストは十丈の高さがあった。マストには竹で編んだ帆が数段に分けて巻き上げられ、藤蔓(ふじつる)の縄が幾数条も張ってあった。
 ブルン、ブルン、ブルン。
 と、春風に鳴っていた。
「すごい船だな。あれだったら嵐が来てもびくともしないだろう」
「朱塗りの美しい船だ。破風(はふ)の屋根は今まで見たこともない金色だ」
 見送りの民衆が驚きの声を上げていた。
 船腹は色鮮やかに、赤と黒で塗られていた。船首の両側には大きな金色の眼が描かれており、航海の安全のため大海原を睥睨(へいげい)していた。舷側には無風状態の時水手(かこ)が櫂(かい)を漕げるよう「棚板(たないた)」と呼ばれる椅子が付いていた。船の後部には、「喬屋(きょうおく)」(船室)と呼ばれる高い建物があり、屋上には大鼓(おおづつみ)が据え付けられ、二階には船長(ふなおさ)の室があり大海を見渡せるようになっていた。船の中央には、大きな客室があった。
 四隻の総勢五百五十七人は遣唐使始まって以来の大使節団であった。浜は何万人もの見送りの人であふれ、送迎の船も含めて十三隻の船が春の難波津に並んだ。
「壮観な眺めですね。あの大きさなら遭難することもなかろう」
 と、右大臣藤原不比等が満足そうに言った。
「前途洋々たる日本の夜明けを感じますね。大納言阿倍宿奈良麻呂殿、仲麻呂殿はどの船に乗られているのですか」
 元正天皇が華やいで、問いかけた。
「あの一番後ろの船です」
女帝と大納言は心の中で、
「必ず、生きて還ってこいよ」
 と、祈った。
 喬屋(きょうおく)の上に船師が仁王立ちになり、出航の大太鼓を打ち鳴ならした。
 ドーン、ドーン、ドーン。
 と、腹の底までしみ渡る太鼓の響きに、浜の桜がサラサラと散った。
 水手長(かこおさ)が銅鑼(どら)を叩いた。
 ガーン、ガーン、ガーン。
 難波の森の雀たちがいっせいに大空に舞い上がった。船首の轆轤(ろくろ)を使って碇がつながる藤蔓(ふじつる)のともづなをキリキリと巻き上げた。両舷側に坐っていた水手(かこ)達がいっせいにかけ声を出し、櫓(ろ)を漕ぎだした。
「エイサー、エイサー、エイサー、エイサー」
 第一船から上手に風に乗り、縦列に順次、港を離れていった。各船の両側に一隻ずつ、隊列の最後尾にもう一隻、合計九隻の船が送迎のため従っていた。マストの天辺(てっぺん)の細長い真っ赤な吹き流しの旗が春風に東に流れた。松林がザワザワと鳴り、宮廷の音楽隊が別れを惜しんで一層音を上げて演奏した。
 今回の遣唐使は往復共に全船遭難することなく役目を果した。長い遣唐使の歴史の中では希なことであった。
 第一船には多治比真人が、第二船には大伴山守が、第三船には藤原馬養が、第四船には大判官(だいほうがん)が頭として乗っていた。若い留学生(るがくしょう)阿倍仲麻呂、吉備真備(きびのまきび)、学問僧玄ム(そうげんぼう)等は第四船に乗っていた。

 仲麻呂は阿倍家の貴公子で、秀でた才能のため阿倍一族の星として将来を宿望されていた。剣の腕の立つ家臣羽栗吉麻呂(はぐりのよしまろ)が{従(けんじゅう)(従者)として唐へ従った。
「あの背の高い蘇芳色(すおういろ)の服をゆったりと着た貴公子は誰ですの」
 貴族の若い女達がささやいた。
「あれが噂の阿倍仲麻呂様ではないですか。あなた、知らないの」 
「なんとすてきな人ね。凛々しいわ」
 五尺八寸の長身の仲麻呂はえんじの服を海風にはためかせた。大きな白い麻袋を肩に掛け、黒漆(くろうるし)の鞘(さや)に紅(くれない)の帯執(おびとり)の付いた黒作太刀(くろづくりのたち)をさげ、一度ゆっくりと足を止め振り返り、見送りの人々に手を振り、笑顔で別れを告げた。その後、背筋を伸ばし、天空を仰ぎ遣唐使船へ、スタスタと上がっていった。刀は守護神として叔父の大納言阿倍宿奈麻呂から授かった伝家の宝刀であった。その後ろに家臣の羽栗吉麻呂が続いた。
 吉備真備は当時まだ下道朝臣真備(しもつみちのあそんまきび)と呼ばれていた。岡山県吉備出身の下級官僚の生まれであったが、若くして学問に秀で、留学生に抜擢された。入唐(にっとう)当時二十四歳で阿倍仲麻呂より七歳年上であった。白い衣服に、白い絹ひもで束ねた長い髪、真っ黒いあご髭を春風になびかせながら乗船した。大きな額に桜の花びらが二、三枚舞い散った。彼は下級官僚の出でありながら、後に右大臣まで上りつめた稀にみる逸材であった。
 僧玄ムは物部(もののべ)一族の四国阿刀氏(あとうし)の出身で、年は吉備真備の二歳年下。若くして仏教の教典に対する造詣が深かった。ちなみに同郷空海(くうかい)が遣唐使となったのは百年近く後のことであった。墨染(すみぞ)めの僧衣は舷側から動くことなしに、桟橋にたたずむ若い女をジッと見つめていた。他の人は全く目に入らず、その瞳は涙で潤んでいた。彼も帰国後文武(もんむ)天皇の宮子皇后(あやここうごう)の病を治し、僧正(そうじょう)として朝廷において重きをなした。
 三人の若者は、一つの船に乗った。それぞれの夢は異なっていたが、波乱万丈の人生の門出は遣唐使船であった。三人とも、命を懸けておのれの夢を実現しようと希望と勇気と自信に満ちあふれ、光り輝いていた。

「仲麻呂殿、阿倍家は由緒ある氏族で、一族の皆が朝廷の要職に就かれており、その上、貴殿の能力はすでに高く評価されている。将来が約束されている君が、危険が多く生きて還れるかわからない遣唐使留学生をわざわざ希望したのは、なぜですか」
 吉備真備が問いかけた。
「秘色の碗と世界地図です。で、真備殿はなぜ遣唐使の道を選ばれましたのですか」
 と、阿倍仲麻呂は逆に問い返した。
「秘色の碗と世界地図 ・・・」
 と、言ってから、真備はしばらく黙っていたが、答えた。
「私は下級官吏の身です。家柄ではなくおのれの才能と知識で国家のために尽し、立身出世をはかりたい。遣唐使に私の命を懸けました。唐に渡り、必死で勉強し、日本にもどります」
「玄ム殿はなぜですか」
 仲麻呂が尋ねた。僧玄ムはただ淋しそうに笑っているだけで何も答えなかった。
「あの女(ひと)は妹さんでしたのか」
 また、仲麻呂が声を掛けた。
「いいえ、僕の恋人です」
 若き僧は初めて言葉を発した。
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2011年11月16日

連携(14)

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連載 (14)

        6.阿倍仲麻呂と楊貴妃の出逢い


 大型新造船のためか、今回の遣唐使は、めずらしく四隻とも無事中国揚州(ようしゅう)の港に漂着した。一行は揚州から運河を通り、船で洛陽(らくよう)まで行き、洛陽から長安(ちょうあん)まで陸路を馬でいった。遣唐使一行が長安に到着したのは七一七年(日本 養老元年)晩秋のことであった。
 秋の空は深く、雄大であった。秋風に欅(けやき)の落ち葉がカサカサと舞い上がり、吹き溜まりにうずたかく重なり、蓬(ほう)の枯れ木が大地を東に西に転がり回っていた。ほうきのような桑畑を抜けると、南北に黄色みがかった茶色の城壁が延々とつながり、その向こうには赤い宮殿の柱が亭亭(ていてい)と聳えていた。寺の黒い甍(いらか)が累々(るいるい)と幾重にも光り、レンガ色の西域様式の塔が天空を突き刺すように伸びていた。城壁は高さ、幅共に十二メートルほどもあり、壁というよりも高殿(たかどの)であった。
 城内に近づくと旅籠(はたご)、食堂、商店が建ち並び、ろば、馬、駱駝,象、牛車が行き交い、子供、女、西域人、軍人、官僚、坊主、旅人、舞姫など人々でごったがえしていた。
 青い春明門(しゅんめいもん)は、連なる城壁より一段と高く二層の楼閣を築いていた。門の幅は二十五メートルほどもあり、百人以上の金吾衛(きんごえ)の兵士達が警備していた。長安城は、東西十キロ、南北八キロもあり、平城京の三、四倍、百万人が住む、当時世界一の大都市であった。
「全てが大きい」
 辺りを見上げながら、馬上の仲麻呂はつぶやいた。
「あれが駱駝か。でかいなあ」
 真備(まきび)が見上げながら叫んだ。髭もじゃで、先の曲がった白い帽子を、いきにかぶった白い服の深目高鼻の西域人が乗っていた。
「青い目の女がいる。あれはどこの国の女だ」
 僧玄ム(そうげんぼう)が見とれる先に、胸を露(あら)わに、うすぎぬの肩掛けを風になびかせた金髪碧眼(きんぱつへきがん)の胡人(こじん)の舞姫が闊歩していた。遣唐使一行は日本国とのあまりの違いに、目を白黒させ、周りをきょろきょろ見ながら春明門をくぐった。日本では女人が肌を露わにすることなどあり得ないことであった。
 春明門は長安城の東の城壁にあるメインゲイトであった。門をくぐると真っ直ぐ正面に、つまり東から西へと大路(おおじ)が続いていた。道と言うよりも広場であった。大路の両側には槐(えんじゅ)や楡(にれ)の大木が緑の影を落としていた。木の根本には小川が流れていた。街路樹の後ろは土塀が連なっていた。その高さは外壁に比べれば低いが、三メートル以上はあった。つまり城内も区画毎に壁で囲まれていた。
 門をくぐったすぐ北側の土塀の向こうには、真新しい彩色豊かな宮殿が広がっていた。三年前、玄宗皇帝により建設されたばかりの絢爛豪華な「興慶宮(こうけいきゅう)」があった。
 宮殿を通り過ぎた南側には、市場があった。長安にはこの東市と西市の二つの市があり、市場もまた土塀で囲まれていた。羊の肉を焼く匂いがムンムンとただよい、鶏がかごのなかでパタパタと羽ばたいていた。東市をぬけて更に真っ直ぐ行くと、南北を貫く大路に出た。右手、北方に皇城、宮城の宮殿がまた城壁に囲まれ立ち並んでいた。
「これが朱雀大街(すざくたいがい)か」
その道幅の大きさに遣唐使一行は圧倒されるだけであった。朱雀大街は、北の皇城の朱雀門から、南の城壁明徳門(めいとくもん)を貫く長安最大の南北をはしる都大路であった。その道幅は百五十メートルもあった。
前方、北の高台には、未だかって見たことのない、幾重にも重なった世界最大の宮殿郡が広がっていた。
「ああ、おお、あれが大明宮(たいめいきゅう)か」
 と、遣唐使一行は世界大帝国の宮殿に感嘆するばかりで言葉がでなかった。
 朱雀大路を北に向かうと、高さ五十メートルはあると思われる皇城の入口に構えている楼閣「朱雀門」を通り皇城内に入った。ここから道は「承天街(しょうてんがい)」と呼ばれ、正面に見える宮城の正門「承天門」まで続いている。その向こうが宮城である。宮城の更に東北の高台に大明宮の宮殿の甍が連なっていた。
「日本の平城京は長安城を見習って建設されたと言われているが、碁盤の目のような路、街の名称は事実その通りだな。しかし、大きさが違うわ」
「真備殿。やはり来てよかったですね」
「おお、来てよかった。長安は聞きしにまさる世界一の帝都だな」
「これほどすごいとは思わなんだ」
 日本からはるばるやってきた遣唐使一行は「鴻臚寺(こうろじ)」に入った。鴻臚寺と言っても寺のことではなく、今の外務省に当たる役所のことである。「鴻臚客館(こうろきゃくかん)」とは外国からの客人を歓迎したり、泊めたりする迎賓館施設であった。日本人専用の常設の鴻臚客館が長安にあった。

 押使多治比真人(おうしたじひのまひと)の遣唐使一行は貢ぎ物を献上し、中書省(ちゅうしょしょう)(政策の立案、詔の起草をする役所)において熱烈歓迎の宴を受けた。玄宗皇帝に謁見し、孔子廟(びょう)、寺院、道観(どうかん)(道教の寺)を礼拝した。正月の儀に参賀した後、翌年の夏、遣唐使一行は無事役目を終え、若い長期留学生を残し、日本へと帰途についた。
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 三人の留学生は、長安を去り日本に帰る遣唐使一行の無事を祈り見送った。
「あの独りぼっちの少年は誰ですか」
 阿倍仲麻呂が尋ねた。未だ十一、二歳と思われる一人の少年が、帰り船の一行に加わっていた。
「坂合部(さかいべ)殿、朝元(ちょうげん)をよろしくお願いします」
 少年の父親、僧弁正(べんしょう)が言った。
「弁正心配するな」
 今回帰国することになった前回の遣唐使副使坂合部が言った。
「朝元、坂合部殿の言うことをよく聞き、無事日本に帰りなさい。達者でね」
 少年の母親は両手をしっかりと握りしめ、涙を浮かべて言った。
「はい。お母さん大丈夫だよ」
「朝元、元気でがんばれよ。これをお守りに持って行け」
 兄朝慶(ちょうけい)は、弟に自分の一番大切にしていた真っ赤な透き通った美しい平たい石をあげた。石を太陽に向けて透かして見ると、真っ赤に光輝く太陽がくっきりと見えた。それは弟がいつも欲しがっていた兄の宝であった。
「兄ちゃんありがとう」
 七0二年(日本 大宝二年)前回の遣唐使の時、坂合部大分(さかいべのおおきた)、万葉歌人山上憶良(やまのうえのおくら)と一緒に長期留学僧として僧弁正は入唐(にっとう)していた。坂合部は今回の遣唐使の帰り船で十五年振りに、日本に帰国することにした。
 僧弁正は長安で唐女と恋に落ち、還俗(げんぞく)し結婚した。還俗とは一度出家した僧侶が再び俗人に帰ることを言う。二人の間に生まれた子が朝慶と朝元である。唐は開かれた国家で、外国人と唐の女性との結婚は自由に認められていた。ただし、唐の女性を国外に連れ出すことは、法で許されず、しばしば悲劇が生まれた。
「私たち母子を残して一人で、日本にお帰りになることはありませんわね」
「親子四人揃ってこの遣唐使船で十五年振りに故国に帰りたかった」
 弁正は正直に言った。
 愛する唐女の妻一人残して日本に帰ることは、弁正にはとても辛くて出来なかった。
「俺はこのまま唐に残る。せめて、次男の朝元を故国日本に送り勉強させることにしよう」
「朝元は未だ十二歳の子供、一人ではかわいそうですわ」
 妻はせがむように言った。
「お母さん、僕は大丈夫だ。日本に行って勉強してくるよ」
 朝元は半分泣き半分笑って言った。
 僧弁正は俗名秦氏(はたし)で、もともと渡来人(とらいじん)の出であった。碁が強く玄宗がまだ皇子の頃からの碁の朋であった。
 一人、日本国に渡った秦朝元(はたちょうげん)は中国語、日本語を駆使し、次回の遣唐使判官(ほうがん)として出世し、十六年振りに生まれ故郷中国に帰る。その時、朝元は二十七歳であった。

 阿倍仲麻呂、吉備真備、僧玄ムの留学生達は、取りあえず鴻濾客館(こうろきゃくかん)に逗留し、鴻濾寺で勉学にいそしむことになった。
 当時の中国の最高教育制度は国子監(こくしかん)と呼ばれその下に、国子学、太学(たいがく)、四門学(しもんがく)と三つの学校があり、家柄の位階によって入学許可が定められていた。国子学は三品以上、太学は五品以上、四門学は七品以上の皇族、官吏の子弟がそれぞれ入学許可された。
 三人の日本留学僧はまず国子監の超玄黙(ちょうげんもく)助教より鴻濾寺にて個人教授を受け、儒教、仏教の教典を通して漢語の基礎を一年間学んだ。超玄黙は特に「礼記(らいき)」、「漢書」の権威者であった。
「三人とも漢語の読み書きは唐人以上に優れており、大変驚きました。会話は学問ではない。唐人は皆誰でも話す。皆若いのですぐ話せるようになります」
 三人の留学生は、毎日、朝七時から昼十二時までむさぼる様に勉学に没頭した。
勉強が好きでたまらない優秀な若者達であった。砂漠に水がしみ込むように一滴も漏らさず吸収した。
「日本国の留学生は皆極めて優秀である」
 超玄黙は驚いた。
 そして、一年間の個人教授の後、三人はそれぞれ異なったおのれの道を歩むことになった。
「仲麻呂、君にはすでにもう教えることはない。太学にて学びなさい」
 阿倍仲麻呂だけは早くも三ヶ月後、皆と別れ太学で学ぶことになった。太学は五品以上の高級官僚の子弟しか入学を許可されない最高教育機関であった。超玄黙助教は仲麻呂がただ者ではないことに、すぐ気が付き、時の国子監の長に特別太学で学ぶことの許可を依頼した。
「幾らか優秀だからと言って、蛮国東夷(ばんこくとうい)の若者を権威ある太学に安易に入学許可させることは出来ない。中国の五品以下の官僚にも彼と同じくらい優秀な子弟は、いくらでもいる。規律が崩れ、不公平になるので入学は許可出来ない」
 超玄黙助教は初唐を代表する国子監の学者であったが未だ若く、家柄も必ずしも高くなく、位階も低かった。彼は玄宗皇帝に直訴した。
「阿倍仲麻呂は遙か蓬莱(ほうらい)の彼方から波濤万里(はとうばんり)を越えて命懸けで到来した、極めて優秀な留学生です。そもそも、科挙(かきょう)制度は家柄、位階に関係なく優れた人材を広く登用する、天下に類を見ない高級官僚登用制度であるはず太学においても、将来の大唐国、日本国、天下のために貢献出来る特に優秀な若者には国家、民族、家柄、位階を越え、広く門戸を開き、勉学のよい環境を与えてやることが中華世界の天子の王道ではありませんか。皇帝陛下、仲麻呂が太学で学ぶことが出来るよう許可お願い申し上げます」
「超玄黙、よくぞ言ってくれた。仲麻呂を太学で学ばせることを許可する。更に、生活に必要な資金は、全て大唐国より給付せよ」
 玄宗は名実共に世界帝国の皇帝にふさわしく、自負と高い資質を持ったき名君であった。
 吉備真備も日本の朝廷において、頭脳明晰な若者として、すでにその名を馳せていた。ずっと後、五十を過ぎてから、その功績により聖武(しょうむ)天皇より由緒ある吉備朝臣の姓(かばね)を賜った。
「仲麻呂は芸術家肌であり、真備は学者肌である。仲麻呂が文学青年であれば、真備は若き科学者である。仲麻呂は詩歌を愛し、真備は天文に興味を持っている」
 と、超玄黙は二人の日本人を評した。
「我が朝の留学生にして、名を唐国に挙げる者は、ただ、大臣(吉備真備)と朝衡(ちょうこう)(阿倍仲麻呂の中国名)の二人のみである」
 と、『続日本紀(しょくにほんぎ)』に記されている。二人は大唐国において高く評価されていた。
 ただし当時、中国の学問は、四書五経(ししょごけい)、儒教、仏教、歴史,詩が中心で、天文、暦法、算学、兵法などは実学として一段階下に扱われていた。特に詩歌の教養があることが極めて重要であった。天才真備に一つだけ欠けていたのは詩歌の才能であった。彼は詩を苦手としており、八十年の生涯において、一片の詩も残すことなくこの世を去った。
「仲麻呂殿。わたしは詩才がなく、本当に恥ずかしい」
「何をおっしゃいます。天才にも、一つぐらい出来ないことがあってもよいではないですか」
 当時、華やかにもてはやされたのは仲麻呂であっが、実質的に日本発展のため多くの影響を与え、貢献したのは真備であった。
 僧玄ムは法宗を学び玄宗皇帝より准三品(じゅんさんぴん)と紫袈裟(むらさきのけさ)を授かった。
 
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2011年11月17日

連載(15)

IMG_2067_1_1.jpg  (連載15)

科挙は難関を極め、二十歳代で合格すれば天才中の天才であった。あの白居易(はくきょい)(白楽天)が進士(しんし)に合格したのは二十八歳であったが、その時の合格者は十七人で、自分が一番若かったと「雁塔の題名(がんとうのだいめい)」(壁の落書)に得意げに書き記した。
 進士に合格するため一生を掛けた人も少なくなかった。毎年毎年、試験勉強に明け暮れ、紅顔の美少年も十年、二十年と歳月が流れ、やっと念願の進士に合格した時には、すでに白髪の五十、六十の老人になっていたと言うのも普通のことであった。
高級官僚の娘達にとって進士は、婿としてのあこがれの的であった。ある時、若い綺麗な娘が進士に及第した老人の進士に尋ねた。老人は自嘲気味に、
「五十年前は、二十三の美少年よ」
 と、答えた。 
 まだ、年老いても進士に及第すれば、子供、一家、一族にとっては、大変名誉のことで救われたが、合格することなしに人生を虚しく棒に振った人達もたくさんいた。
 首席合格者を「状元(じょうげん)」と呼び、最年少で合格し、かつ容姿端麗な進士は「探花郎(たんかろう)」と呼ばれた。

 阿倍仲麻呂が進士に合格したのは、唐国に留学し、国子監(こくしかん)で四年勉強後の二十一歳の春であった。唐の偉大なる詩人王維(おうい)は科挙合格の同期生で、年も一緒であった。それ以来、二人は青春を語り合った無二の朋になった。
 科挙を及第した新しい進士達は、揃って試験官の宅を訪れ、礼を述べた。そして、試験官は皆を連れ宰相(さいしょう)の家を訪問し、進士を紹介した。その後、長安城の東南にある「曲江(きょくこう)」の苑(その)で祝賀の宴が開かれた。、百官の高級官僚や女官やその家族も参加し、春爛漫の恒例の大宴会で、高級官僚の娘達も着飾りたくさん参加した。婿選びを兼ねた上流貴族達の社交の場でもあり、皇帝自らも近くの「紫雲楼(しうんろう)」に出御(しゅつぎょ)し進士達の前途を祝した。

「日本の青年が、探花郎(たんかろう)になったんだって」
 長安の娘達はさすがに驚き、巷はこの話で持ちきりであった。
「朝衡(ちょうこう)(阿倍仲麻呂の中国名)は本当に日本人なのか」
「美無度(びなんど(美男子))との噂だけれど,ほんとかしら一度見てみたいわ」
「名前の通り、探花郎は長安城の中を歩き回り、最も美しい大輪(たいりん)の牡丹の花を探しあて、進士及第を祝う曲江(きょくこう)の宴にて、皆に花を披露する慣わしになっているのだ」
 と、先輩の進士合格者が教えてくれた。
「宴(うたげ)の終わりに、進士達は自分の気に入った女に、自分が手折ってきた一輪の牡丹をあげるのだ、楽しみであろう」
 それが縁で結ばれることもあったという。
「ただし、探花郎に選ばれた者は、他の進士たちより一番美しい牡丹を探してこなければならないのだ。もし他の進士が探花郎より美しい花を持っていたら、探花郎は罰せられる慣わしだ」
 他の先輩が教えてくれた。
「罰せられるとは」
 仲麻呂が尋ねた。
「進士及第者全員に対して、葡萄酒の杯を返さなければならないのだ」
 もと進士合格の宰相が皇帝に尋ねた。
「今年の探花郎は王維(おうい)と朝衡(ちょうこう)です。朝衡は日本人ですがいかが致しましょうか」
 合格するまで日本人だとわからなかったような口振りであった。
「日本人であろうと、何人であろうと、権威ある進士に難関を突破し及第した者は、唐国の官吏として大切に登用せよ。漢人にとっても難解中の難解の進士に、外国人が探花郎で合格するとは驚いたものだ。どんな男か見たいものだ」
 三十七歳の壮年玄宗皇帝は、即座に言った。さすが大唐国の皇帝、民族、国家を問わない判断であった。
玄宗は仲麻呂初めて見て言った。
「おお、まさに天庭飽満(てんていほうまん)、地角方圓(ちかくほうえん)の相だ」
 ひたい額は広く、あごは丸い、聖人の相があると賞賛したのである。

「仲麻呂、私は酒が強くありません。一番美しい牡丹の花を披露することが出来なかったらどうしよう」
 初々しい王維(おうい)が心配して言った。
「もしそうなったら、私が半分を引き受けます」
 ろくすっぽ酒など飲んだこともない、これまた初々しい青年仲麻呂が平気で答えた。
「あなたは誰に牡丹の花をあげるのですか。もう心に決めている女性はいるのですか。私はわからない。誰にあげるか戸惑います。あまり、うろうろして、じろじろ見ても格好悪いし、どうしたらいいだろう」
 多少、神経質性の天才文学青年が言った。
「そうだ、よい考えが浮かんだ。一輪といわずそれぞれ九輪(くりん)の花を携えていこうぞ」
「仲麻呂、それはよい考えだが、一人一輪が今までの慣わしですよ」
「じゃあ、今年から慣わしを変えてみよう。面白いじゃないか」
「わかった。気に入った女人には皆花を渡そう」
「王維、牡丹の花を人妻に上げてもよいのか知っていますか」
「聞いたことがい。人妻かどうかはどうやって見分けるんだろう」
 二人の天才青年はたわいのない話をして楽しそうであった。

 宴が終わると、進士達は一同揃って、まず曲江(きょうこう)の北にある慈恩寺(じおんじ)へと繰り出した。そこには、三蔵法師(さんぞうほうし)(玄奘)がインドから持ち帰った経典を保管するために建立された、あの有名な大雁塔(だいがんとう)が聳え立っていた。塔に登って長安の街を見下ろし、お互いの前途を祝し合った。そしておのれの名前を塔の石の壁に刻んだ。その昔、合格した進士がうれしさのあまり、大雁塔の壁に名前を記念に書き記(しる)し、それ以来慣わしとなったと言われている。
 引き続き、探花郎を初めとして、みんなが持ち寄った美しい牡丹の花の出処を見て回った。最後に長安の花街、平康坊(へいこうぼう)の狭斜(きょうしゃ)(路地、横丁)に繰り出し、舞姫と一夜も共にした。

 仲麻呂は四年で日本人留学生としての勉強は終えて、科挙に合格し、唐国の官吏として登用された。最初の仕事は洛陽(らくよう)の左春房司経局(さしゅんぼうしきょうきょく)の校書(こうしょ)で、正九品下という低い官位からのスタートであった。時に、阿倍仲麻呂二十一歳であった。左春房とは皇太子の役所で、皇太子の図書、文書係(校書)を務め、主に公文書の校正等をする仕事であった。

 詩人・白居易(白楽天(はくらくてん))の長恨歌(ちょうごんか)の冒頭に「漢皇(かんこう)、色を重んじ傾国(けいこく)を思う」(漢皇とは古の漢の武帝(ぶてい)を指し、直接玄宗と詠うのは畏れ多いので憚(はばか)ってである。傾国とは美人のこと)と詠われているように、古今東西英雄は色を好むものである。
 玄宗には五十九人の子がいて、その母親は十七人であった。しかし、玄宗が心の底から愛した女性は武恵妃(ぶけいひ)、梅妃(ばいひ)と楊貴妃(ようきひ)の三人だけで、三千人の後宮にはほとんど目もくれなかった。三十人の王子と二十九人の親王がおり、孫は百人以上いた。三十人の王子の内、七人が幼少のころ亡くなっている。その主だった王子たちは長安北東の隅に住んでいたが、この一画だけは坊といわず、最初は「十王宅(じゅうおうたく)」と呼ばれていたが、王子が増え十六人の王子が住むようになり「十六宅(じゅうろくたく)」と呼ばれるようになったのだ。
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2011年11月18日

連載(16)

IMG_1972_6_1.JPG  (連載16)

 阿倍仲麻呂は七三三年(日本 天平五年)唐に来てから十五年後、玄宗皇帝第十二子魏王(ぎおう)の親王府(しんのうふ)の友(ゆう)、従五品上に抜擢され、洛陽から長安に移り、十六宅に居を構えた。王子達もそれぞれ皇帝の役所を真似して、小型の役所を持っていた。これが親王府である。府の長官は傳(ふ)であり、友(ゆう)はその次官であった。

 仲麻呂が十六宅に来てから三年目、仲麻呂三十六歳の夏はことの他暑かった。共に入唐(にっとう)した留学生真備(まきび)も玄坊(げんぼう)もすでに日本へ帰ってしまっていた。
ある日の昼下がり、十六宅内の敷地をゆっくりと一人散歩していた。空を覆う槐(えんじゅ)の木と池を覆う睡蓮(すいれん)の葉はその熱さを幾らか和らげてくれていた。
「あれ、ここは何処だろう、道に迷ったかな」
 彼はびっくりして足を止めた。いつの間にか、誰かの屋敷内に迷い込んでしまっている。くずれた土塀の木々の向こうに、侍女を従え水浴びをしている若い一人の妖艶な高貴の女が見えた。
女は、二藍(ふたあい)(藍色)の風衣(ふうい)(肩掛け)を梧桐(ごどう)の枝にかけた。山吹色の透けた羅衣(うすぎぬ)を一枚脱いだ。ゆっくりと黒い帯を解き枝にかけ、その下に着ていた胸元から足下まである真っ赤な長裙(ちょうぐん)(ワンピース)をサラリと落した。最後に紫色の下穿(したばき)を脱ぎ捨てた。まぶしいばかりの一糸まとわぬ凝脂(ぎょうし)の白い裸体が現れた。
「ああ。何と美しい」
 と、仲麻呂は茫然とした。
「阿環(あかん)様、水を流しますよ。よろしいですか」
 侍女が井戸から汲み上げた水をザッと掛けた。
「ああ、冷たくて気持ちがいい。この暑さには水浴びが一番いいわ。もう一杯掛けて下さい」
「阿環様のお肌は本当に綺麗ですね」
 女達の嬌声(きょうせい)が仲麻呂にはっきり聞こえてきた。
 侍女達は玉環(ぎょくかん)を、親しみを込めて阿環と呼んでいた。侍女は井戸の水を桶でくんで、玉環の肩に続けて掛けた。肌は水を弾き飛ばし、水玉が辺り一面にはじけ飛んだ。上を向いたはち切れそうな乳房に真夏の木漏れ日がゆらゆら動いていた。太陽の光で乳首は透き通る柘榴色に輝やき、うなじから胸、腹部への微妙な起伏の曲線が柔らかい陰影を創り出していた。仲麻呂は陶酔した。

 行水を終わった玉環は、二藍(ふたあい)の羽衣を直接肌にそっとまとった。美しい裸体が紅梅色に透けて見えた。そのまま松の木の秋千(ブランコ)に腰掛け、体をゆっくり揺り動かした。
「揺らして下さい」
 侍女が更に秋千を大きく揺り動かした。空に舞う天女のようであった。
「もっと揺らしますか、阿環様」
「そのくらいでいいわ。ああ気持ちいい」
 秋千が前後に揺れる度に風衣の芙蓉の花文様が空中に舞った。長い黒髪が風に乱れ、白い肢体が見え隠れした。
 槐の大木の黄色い花の香りが空から舞い降り、玉環を包んだ。生い茂る睡蓮(すいれん)の真っ赤な花の香りが水面から舞い上がり、玉環を包んだ。衣裳は薫香(くんこう)でたきしめられたように薫りに包まれた。日が傾き、急にひぐらしが鳴き始めた。
 阿倍仲麻呂は立ちすくんだままジッと眺めていた。女達は仲麻呂の存在に全く気が付かなかった。この水浴び女の一幅の絵は仲麻呂の瞼に焼き付いたまま忘れることがなかった。
「美しい絵だ。名は阿環(あかん)様か」

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 その翌年の春、阿倍仲麻呂は一人、洗い立ての白衣に身を包み、白馬に乗り、長安の南東の隅にある、曲江(きょくこう)の苑(その)へ散策に出た。
「夜来の嵐がおさまり、春爛漫の素晴らしい日よりだ。馬に乗って街に出てみよう」
 青龍寺(せいりゅうじ)を抜け、小高い丘の上の楽遊原(らくゆうげん)にて、しばし馬を止めて、雨上がりの澄み切った帝都の春を見渡した。白馬のたてがみが春風に絡み合った。遙かに頭(こうべ)をあげて、遠く北を望めば、竜尾(りゅうび)の丘に離宮の黒い甍と赤い柱が雲霞(うんか)の下に光り輝いていた。近く南を望めば、大慈恩寺(だいじおんじ)、西院(せいいん)の七層の浮図(ふと)(塔)が蒼穹(そうきゅう)を刺してそそり立っていた。古い墳墓を通り抜け、下って曲江の池に差し掛かる路曲(ろきょく)(小道)で真っ赤な七香車(しちこうしゃ)(女性が乗る牛車)に乗った女達の一団に出くわした。
 昨夜来の大雨で路肩がゆるんでおり、牛車の片方の車輪が道から外れ落ち、車が大きく傾いていた。男は御者だけで、あとは女三人連れであった。
 ひっくりがえりそうになった牛車を立て直そうと御者は、懸命に鞭を打ち、青牛(くろうし)は足をばたつかせているが、車は動くけはいがなかった。
「どうか助けて下さい」  
 女の一人が、近づいてきた馬上の仲麻呂に傾いた牛車のなかから声を掛けた。
「降りてもらわないとだめですね」
 牛車は激しく傾いており、足場も悪いので女達は自分で降りることが出来なかった。仲麻呂は馬に乗ったまま測道に降りていき、馬上から牛車のなかの女を一人づつ抱え出し、降ろした。三人目の高貴な女を見た瞬間、仲麻呂はドキッとした。しっかりと抱きしめた。女は男の厚い硬い胸に手を添えた。
「水浴びをしていた時の、あの女だ」
 御者と仲麻呂は車を平らにし、空の牛車を路上に乗り上げることに成功した。仲麻呂は泥だらけになり、汗びっしょりになり上半身裸になって働いた。
 汗に濡れた筋骨たくましい壮年の男の裸を、三人の女はうっとりと見つめていた。我に返って言った。
「難儀をしているところ、ご親切に助けていただき、本当にありがとうございました」
 お供の女官が言った。
「ありがとうございました。どうか、お名前をお聞かせ下さい」
 高貴な女が初めて仲麻呂に声を掛けた。
「我は蓬莱(ほうらい)の人」
 水浴びの女は右手を頭にかざし、かんざしを抜いた。かんざしが春の光に玉虫色に輝いた。
「手持ちが何もありません。この金のかんざしをお礼に受け取って下さい」
 女はすかさず右手をサッと出し、仲麻呂の手を躊躇することなくつかまえ、かんざしを握らせた。仲麻呂はその白い柔らかい手の感触をここちよく感じ、思わず強く握り返してしまった。
「ああ、蓬莱の人よ、あなたのことは忘れません。またお逢いできることを祈っています」
 阿環は身体が熱くなり上気してしまった。
 かんざしは今にも天空に舞い上がらんとする鳳凰の金の透かし彫りであった皇族の女でなければ持てない高価な物であることに仲麻呂もすぐ気が付いた。いきずりの女からもらうにしてはあまりの高価な物であった。
「素晴らしいかんざし、ありがとう。また会える日まで拝借します」
 と、笑みを浮かべてると、白い上着をサッと肩に掛け、裸のまま馬に飛び乗って駆け去った。男の汗が飛び散った。
「なぜ、私の名をご存じなの?」
 と、問い返した時には、仲麻呂の姿は蒲(がま)の葉が生い茂る曲江の池へと消えていた。池は水かさが増し、溶々として満ち、いつもより大きく見えた。芽を吹いたしだれ柳の先が、春風が吹く度に池の水面をかすかにそっとなぜ、その度に小さな波紋ができた。
「あのかんざしをあげてしまってよかったのですか、阿環様。なぜ、あのお方は阿環様の名前をご存知なのですか。怪しいですね」
 二人の侍女がからかうように言った。夫からもらった大切なかんざしであった。
「初めてお逢いした人なのに、なぜ、私のことを知っているのかわからない。でもうれしいわ」
「阿環様は本当に美人だから、多くの男が知っているのよ」
 高貴な若き人妻は悪い気はしなかったが、一人嘆息した。そして、衝動的に高価なかんざしを渡してしまったことに気が付いたが、後悔はしなかった。
「またお逢いしたいわ」
 阿環(玉環)こそ、後の玄宗皇帝の愛情を一人占めした絶世の美女、楊貴妃の若かりしころの姿であった。時に仲麻呂三十七、楊貴妃十九の春であった。
 楊貴妃が玄宗皇帝第十八番目の皇子寿王(じょうおう)の妻として、迎え入れられたのは七三五年(日本 天平七年)のことである。寿王の母は、若き日玄宗に最も寵愛を受けた武恵妃(ぶけいひ)で、その力により寿王は皇太子の第一候補者であった。しかし、武恵妃は病で倒れ若くしてこの世を去り、それと同時に寿王の皇太子への道は断ち切られてしまった。更に悪いことには、寿王の妻の美貌を玄宗の側近、宦官高力士(かんがんこうりきし)が知るところとなり、武恵妃亡き後、父玄宗の後宮として取りあげられてしまった。彼女が宮殿にあがったのは、寿王の妻となって五年後、二十二歳時であった。寿王は皇太子の道を絶たれあげくに、父親に妻を取りあげられてしまった悲劇の皇子であった。
 阿倍仲麻呂が偶然、楊貴妃と出逢ったのはこの時が二度目であった。彼が唐に来て、初めて胸が高鳴り、五感で愛を感じ、美しいと思った女は、楊貴妃ただ一人であった。
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2011年11月19日

連載(17)

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         7.七年間の漂流の旅


 七三二年(日本 天平四年)朝廷は、十五年ぶりに遣唐使派遣を決定した。総勢五百九十四人、四艘と前回同様の大船団であった。
   
 大使:多治比真人広成(たじひのひろなり) 従四位上
 副使:中臣朝臣名代(なかおみのあそんなしろ) 従五位下
 判官:平群朝臣広成(へぐりのあそんひろなり) 正六位上 七三七年外従五位下に昇進
   :秦忌寸朝元(はたのいみきちょうげん) 通司外従五位下(僧弁正の子)
  :紀馬主(きのうまぬし) 
:大伴古麻呂(おおとものこまろ)(大伴山守の子)
留学僧:栄叡(ようえい)、   
   :普照(ふしょう) 

 翌年四月、遣唐使は難波津を出航し、九州太宰府(だざいふ)に寄港し、五島列島を最後に、東シナ海を一気に横断し中国大陸揚州(ようしゅう)を目指した。 

「俺達は生きている」
 平群広成は海に向かって叫んだ。
 青嵐(せいらん)の風が大地の果てから大海の果てに流れていた。風は広成の高く掲げた手の指の間を流れていく。二十八歳の広成は、遣唐使判官(ほうがん)として今甲板の上に立っている。邪魔をするものも無ければ、助けてくれるものも無かった。
 彼は五尺八寸以上の背丈があった。やせ気味に見えるが、骨太なたくましい肢体が、風にはためく衣服から透けて見えた。髪の毛は大きく縮れており、潮風に吹かれて丸く額にまつわりついていた。その精悍な顔に似合わず色白であった。
「古麻呂(こまろ)、栄叡(ようえい)、普照(ふしょう) 大唐国が見えたぞ。早く上がってこい」
 と、広成は大声で叫んだ。大伴古麻呂と普照がドサドサ音を立てて上がってきた。皆二十代の若者であった。
「おお。広成殿。生きて着きましたね」
 と、太い眉毛をした古麻呂は真剣な顔で、前方に広がる美しい中国大陸を見据えたまま言った。
 普照は五分刈りほどに伸びた坊主頭を揺らしながら、慌てて船底に下りていった。嵐のため船酔いで食欲もなく寝たきりの大きな体の栄叡を抱きかかえ、普照は息を弾ませながらまた上がってきた。
「おお、あれが大唐国か、死んでたまるか」
 と、栄叡が大声で、腹の底からおのれに言い聞かせた。
「ああ、感無量だな」
 と、普照が答えた。皆、元気になった。
 栄叡と普照は長期留学僧として、今回の遣唐使に抜擢されてきたのだ。栄叡は美濃国の出、普照は信濃国の出、ともに興福寺で修行を積んだ、有能で将来を嘱望された二十一と二十歳の青年僧であった。二人の留学僧はおのれ自身仏教を学ぶと同時に、舎人親王(とねりしんのう)から直に課せられていた。
「ご両人。唐から仏教の戒律(かいりつ)を教えることのできる中国の高僧をなんとか日本に招聘(しょうへい)するように頼みます」
「親王様。かしこまりました」
 当時、僧尼になると過酷な税を免除されるため、多くの民が我も我もと仏門に走り大きな社会問題になっていた。僧尼になることを認めるためには、正式な仏教の戒律を受けさせることが急務とされた。
 大伴古麻呂は昔から皇室に武人として仕えてきた、由緒ある大伴一族の出であった。前回の阿倍安麻呂に代わって遣唐大使を務めた大伴山守(おおとものやまもり)の息子であった。歌人として有名な大伴旅人(おおとものたびと)は叔父さんで、大伴家持(おおとものやかもち)とは従兄同士であった。古麻呂は同じ大伴家ながら、歌には興味もなく不得意であったが、弱冠二十三歳の有能な青年武将であった。
「大伴家は歌人(うたびと)の一族ではない、もともと武人の一族である。私は武人として名を立てたい」
 もう一人の判官(ほうがん)、秦朝元(はたちょうげん)は僧弁正(べんしょう)の子で日中の混血児であった。弁正は前々回,山上億良(やまのえのおくら)と共に、遣唐使として唐に渡り、中国人女性と結ばれ二人の子朝慶(ちょうけい)と朝元をもうけた。弁正は俗名、秦氏(はたし)でもともと渡来人(とらいじん)であった。朝元は十一歳まで中国に両親と暮らしていたが、前回の遣唐使の帰り船に乗り、家族と別れ一人日本へ渡ったのだ。日本で立派に成長し、今回、通詞(つうじ)として両親のいる母国、大唐国にやってきた。
「やあ、十六年振りに美しい故国の地を無事踏むことが出来た。父、母と兄に逢えるかと思うと本当にうれしい」
 若かくして遣唐使判官に抜擢された二十七歳の秦朝元は、胸を張って故郷、中国大陸を見渡した。
 真夏の太陽はすでに遣唐使船の真上に昇っていた。揚子江(ようすこう)の河口に入ると蘇州(そしゅう)の港がだんだん大きく、はっきりと見えてきた。使節団は全員甲板にあがり、初めて目の辺りにする緑の大地、大唐国を食い入るように見ていた。港には大小のたくさんの船が停泊していた。

 白村江(はくすきえ)の戦い(六六三年)で百済(くだら)が滅亡した後、百済の武将一族七百余人と共に、平群広成(へぐりひろなり)の祖父は日本に亡命し、滋賀県蒲生郡(がもうぐん)に住みついた。日本女性と結婚し帰化したが、その後、平群一族は奈良生駒山(いこまやま)の東側に移り住んだ。その地は「平群の里」と呼ばれ広成はここで生まれた。彼の先祖はもともと百済の人ではなく、高句麗の北のはずれ、今の中国東北部黒竜江(こくりゅうこう)流域に住んでいた、狩猟民族、黒水靺鞨(こくすいまっかつ)(ツングース族)の血を受け継いでいた。
「おれの体の四分一は中国、北の大地のはずれ、狩猟民族の血が脈々と流れているのだ」
 と、彼は得意げに言った。
 彼がその後の波瀾万丈の人生をしぶとく生き抜くことが出来たのは、多くの遠い民族のよい血が混じり合った、頑強な肉体と強靱な精神を与えられたことに寄るところが大きかったのである。
 この時、前回の留学生阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)、吉備真備(きびのまきび)、僧玄ム(そうげんぼう)が唐にいた。仲麻呂三十三歳、真備三十九歳、玄ム三十七歳であった。仲麻呂はすでに従七品上の位階を授かり、玄宗皇帝の左補闕(さほけつ)、すなわち皇帝に過ちがあれば率直に戒める側近であった。
「左補闕とは・・・唐には素晴らしい職がある。権力の座に長く居座っているとどんな立派な皇帝であっても、必ず過ちを犯すものだ。その過ちを誡める官職とは優れた発想だ」
 と、阿倍仲麻呂は感心した。

 仲麻呂はその翌年、七三四年(日本 天平六年)魏王友(ぎおうのゆう)(玄宗皇帝の息子、皇子の補佐)となり従五品上に早くも昇進し、大出世した。

 遣唐使一行が蘇州に漂着したことを蘇州刺史(そしゅうしし)はただちに長安に伝えた。玄宗はこの知らせを受けるやすぐに使者を送り、一行を長安まで案内させた。
 多治比広成(たじひのひろなり)大使以下は、玄宗に謁見し、美濃と水織(みずおり)のあしぎぬ二百匹等を献じ、天子より温かい歓迎を受けた。大明宮(たいめいきゅう)の麟徳殿(りんとくでん)の大広間で百官の高級官僚が出席し、壮大な歓迎の宴を開いた。玄宗皇帝以下、張九齢宰相(ちょうきゅうれいさいしょう)、宦官高力士(かんがんこうりきし)将軍、後宮武恵妃(ぶけいひ)、梅妃(ばいひ)などが参加していた。前回の留学生、仲麻呂、真備、玄ム達も招かれていた。
「朝衡(ちょうこう)(仲麻呂の中国名)、貴殿が唐にこられたのは何時だったかのう。日本からの朝貢(ちょうこう)はあれ以来だな」
 玄宗皇帝は思いだすように尋ねた。
「あれは開元五年(七一七年)ですので、十六年前のことでございます」
 朝衡が答えた。
「そうか、朕(ちん)が即位してからまだ五年後であったか。では朕が三十二歳の時、若かったの。朝衡、貴殿も確か若かった。まだ十代であったろう」
「ええ、十七歳の春でした」
「お互いに歳を取ったなあ。ところで、弁正の子はどこにいるのか、探して参れ」
 玄宗皇帝は側近の宦官高力士(かんがんこうりきし)に言った。
「やあ。貴殿が秦朝元(はたちょうげん)か。大きくなったのう。貴殿の父親弁正とは、朕が郡王の頃からの囲碁友達であったわい。坊主のくせに経典より囲碁とおなごが好きなやつだった。囲碁の腕は相当のもので、わしも強い方だが更に強かった。朕に対していつも真剣勝負で、手を抜いて負けることはなかった。いい男だった」
 玄宗は昔を懐かしむようにして、また話し続けた。
「朝元覚えているか、碁盤の回りを兄弟二人で走り回っておった。あれは四、五歳の頃であろう。朕が負けそうな時、貴殿はよく碁盤をひっくり返して、引き分けにしてくれたもんだ。礼を言うぞ」
 天子は笑いながら朝元に話しかけた。
「覚えています。失礼の数々、何とも恐れ多いことです」
 阿倍仲麻呂も感慨深げに言った。
「見送った時はまだ子供だったのに、立派に成長されたな・・・。月日が経つのが本当に早く感じる」
 秦朝元は大唐国の天子の御前で、冷や汗をかき恐縮するばかりであったが、言葉は流暢な中国語であった。天子は孤独になった青年を笑わせ、元気付け、褒美を与えた。朝元は家族と別れ十六年振りに故国に還って来た。しかし、父、母、兄の三人ともすでに他界していた。二年前、流行の疫病で三人とも同時に亡くなってしまっていた。
「ほんとうに、三人とも逝ってしまったとは」
 秦朝元は兄から貰った真っ赤な平らたい石を力いっぱい握りしめて、嘆き悲しんだ。秦朝元は天涯孤独の混血児となってしまった。その後、日本に帰国し、図書頭(ずしょのかみ)に任官し、後に主計頭(かずえのかみ)に昇進した。
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2011年11月21日

連載(18)

IMG_2096_1_1.jpg  (連載18)

 遣唐使一行は長期留学生を残して、七三四年(日本 天平六年)十一月、四隻揃って、蘇州より帰国の途についた。
 通常、前回の遣唐使で唐に渡来した長期留学生達は、次回の遣唐使で帰国するのが慣わしであった。また、遣唐使の派遣は国家における大事業で、多大な費用と危険が伴うため、二十年に一度が精一杯であり、必ずしも、二十年毎にきちっと派遣するわけではなかった。従って長期留学生の滞在期間はざっと二十年前後であった。
 仲麻呂、真備(まきび)、玄ム(げんぼう)三人は今回の遣唐使で帰国することにしていた。
「朝衡(ちょうこう)、貴殿は名誉ある進士に及第し、大唐国の官吏として今、勤めてもらっている。まさか、この度の遣唐使と共に日本に帰るのではないだろうな。貴殿の左補闕(さほけつ)としての働きは、極めて優れている。このまま続けて朕の側近として大唐国に残ってくれ」
「ありがたきお言葉、喜んで引き続きお仕え申し上げます。日本へ帰るつもりなど毛頭ございません」
 大唐国の天子に、直々にそこまで言われたら、とても帰国など出来るものではなかった。
 帰国出来ると喜んでいたのは、三人の留学生だけではなかった。阿倍仲麻呂の{従(けんじゅう)として、唐まで付き添ってきた家臣の羽栗吉麻呂(はぐりのよしまろ)も十七年振りに故国の土を踏めると喜びで、気が舞い上がっていた。
「私は天子様の命令につき唐に残らなければならなくなったが、羽栗殿、貴殿は帰国するがよい」
 と、仲麻呂は言った。
「いえ、仲麻呂殿が唐に残るのであれば、私ももちろん{従として残ります」
 と、直ちに落胆の顔をうち消し答えた。
「もう{従の仕事は十分果たしてくれた。家族をつれて日本に帰りなさい。今、帰らなければ、二十年後になってしまう」
 自分自身に言い聞かせるかのように言った。
「そうだ、唐の女性を日本に連れていくことは、法で禁止されている。一度、高力士殿とよい手だてがないかどうか相談し、頼んででみよう。妻女も子供もつれて家族皆で帰るのが一番よい。尼僧にでも化けさせて行ったらよいのではないか」
「主人を置いて、自分達だけ帰るわけにはいきません」
「吉麻呂殿。もう十七年間も仕えてくれたのだ。優秀な二人の息子も年頃だ、連れて帰り、日本で学ばせなさい。日唐両国の言葉、文化を理解できる人は貴重だから、また唐に来てもらおう。二人に付けてあげた名前、翼(つばさ)と翔(かける)は天空を翼で翔めぐり、日唐両国友好の架け橋になることを祈願しているのだ。大きなよい名前だ」
 名付け親の仲麻呂が自画自賛し、納得したように言った。吉麻呂は涙をこらえることが出来なかった。翼十六歳、翔十四歳の時であった。
 吉備真備と僧玄ムは帰国の準備で忙しかった。十七年間学んだ研鑽の集大成として持って帰りたい物があまりにも多く、その準備で殺気立っていた。
 二人は金目のものは全て売り払って、本を買い漁った。彼等の部屋は本の山で足の置き場もないほどであった。
「持って帰りたい本が山ほどある」
 真備は『唐礼(とうれい)』、『漢書(かんじょ)』を初めとして兵法、天文学、音楽に至るまで百五十三巻の貴重な書物を持って帰った。
「技術の先端を行く、弓、矢、鎧(よろい)等の新兵器も持って帰りたい」
「俺は五十巻の経典を持って帰るぞ。船は沈まんだろうな。仏像も仏画も持って帰りたい」
 生死を共に十七年間過ごしてきた仲間を見送る阿倍仲麻呂は、孤独と焦燥にさいなまれて、望郷の思いを詠った。忠と孝の狭間を揺れ動く壮年の心境を詠っていた。

       帰国定何年(きこくはさだめていつならん)
 
       義を慕って  名空(むな)しくあり 
       忠をいたせば 孝は全(すべ)からず 
       恩を報ずるに 日あるなし 
       帰国は定めて 何年(いつ)ならん

 日本は中国の儒教の影響を強く受けた。しかしどういう訳か、その後の長い歴史にあって、中国人は孝を第一とし、日本人は忠を第一とした。

 揃って、蘇州の港を出港し日本への帰国の途についた四隻の船は、お互いに二度と再会することはなかった。四艘それぞれ違った航路を歩むことになった。どの船が一番安全で、どれが一番危険か誰にもわからなかった。生きるか死ぬかは神の定めであった。

 第一船には大使多治比広成(たじひのひろなり)が乗っていた。この船に乗っていたのは真備、玄ム、そして羽栗一家四人であった。大海に出て三日目、嵐に遭った船は上海の南、現在の浙江省台州(せっこうしょうたいしゅう)辺りの海岸に吹き戻されて漂着した。しかし、再び出航し、種子島にたどり着き、紀州に到達した。翌年、十一月全員無事奈良に到着した。

 第二船には副使 中臣名代(なかとみのなしろ)が乗っていた。この船にはたくさんの異邦人が同船していた。インドの菩提仙那(ぼだいせんな)、林邑(りんのう)の僧仏哲(ぶってつ)達であった。船は南へと漂流し、インドシナまで流された。同船していた仏哲の取り計らいで、翌年の春、洛陽(らくよう)に戻ることが出来た。一行は唐の船に乗り換え、翌年の春七三六年(日本 天平八年)、無事日本に帰ることが出来た。
 
 第三船は判官平群広成(へぐりのひろなり)が指揮を取っていた。天涯孤独になった秦朝元は、当初唐に残るつもりだったが、第三船に乗っていた。第二船と同様強い南の季節風にどんどん南へと流された。
 数日後、右舷前方近くに島を発見(今の海南島)した。
「何とか接岸しよう。皆最後の力を振り絞れ」
 食糧も水も不足し、皆、力が入らなかった。言葉数も少なくなった。大鳥が数羽船のマストに止まった。
「アホウ鳥よ、その大きな翼に俺達を乗せて故国日本にとどけてくれ」
 秦朝元が叫んだ。
「風の吹くまま、潮の流れにまかせるよりしかたがない。水と食糧を節約しろ。
気を落とすな。数日後には、南の島に漂着する」
 平群広成は皆を元気づけた。
 しかし、遂に水夫が一人死亡した。続いてさらに二人、三人と逝った。
「判官様、このままでは病が蔓延し、皆死んでしまいます。どうしましょう?」
「うむ・・・」
  平群広成は遠くに浮かぶ海南島をじっと見つめたまましばらく沈黙していた。
「端舟(はしぶね)(救命ボート)を降ろせ。病の七人を乗せろ」
 平群広成は指示した。
「判官様、私たちを見殺しにしないで下さい。一緒に日本に帰りたい。どうか助けて下さい」
「お前達をあの島へ送る。島で病を治せ」
「せめて水を下さい」
「一人につき、水瓶と酒壺を一個づつ与えよ」
「必ず迎えに来て下さい。皆と一緒に日本に帰りたい」
「うむ」
 一升の水瓶と二合の酒壺は三日分の分け前であった。
 七人を乗せた二艘の端舟(はしぶね)は、行方も知れず大海の波間に消えた。皆黙ったままであった。平群広成は涙をこらえ心の中でつぶやいた。
「すまん。生きて還れるやつだけが生きて還るのだ」

 第四船は蘇州の港を出港してから全く音沙汰がなかった。おおかた漂流、難破し大海の藻屑と消えたのだろうと都では噂されていた。しかし、第四船も、また翌年の秋、五島列島に無事漂着した。発見した漁師が報告した。
「幽霊船だ。しかし生きている人もいる。阿鼻叫喚(あびきょうかん)まるで生き地獄のようだ」
 二、三十人の乗船者が泣き喚いた。
「助けてくれ、早く降ろしてくれ、水をくれ」
 第四船には判官 紀馬主(きのううまぬし)が乗っていた。彼は上座に正座し静かに言った。
「静まりなさい。この恐ろしい疫病を日本に持ち込む訳にはいかない。日本国を見ることが出来ただけでも幸せに思え。後は神に祈るのみだ」
 乗船者が喚いた。
「日本に着いたぞ。早く降ろしてくれ。水をくれ。飯をくれ」
 紀馬主が沈痛な眼差しで命令した。
「船を接岸してはならぬ」
 海からの悲鳴が夜毎に減っていき、そして全員が死亡した。この悲惨な事実は表沙汰にはされなかった。二十年振りに故国を目の前にして、故国の土を踏むことが出来ずに死んでいった人々の無念と苦渋は想像に絶する。
「紀馬主殿。すまぬ」
 代官はただ手を合わせて神に祈るばかりであった。
 紀馬主率いる幽霊船の恐ろしい物語を伝える生存者はいなかった。この事件は闇から闇へと葬られ史実には残っていない。幽霊船は風雨に朽ち果てるまで五島列島の沖に長い間浮かんでいた。紀馬主は上座に正座したまま、日本国を見つめ地蔵のように死んでいた。寄せては返す波の音から幽霊船の悲痛な叫びが何時までも聞こえるようだ。

 遣唐使が日本に持って帰った物全てが価値のある物ばかりではなかった。これが悪性の疫病であった。今の天然痘であろう。あっと言う間に太宰府から日本全国に蔓延した。日本には過去経験がなく、治す薬もなかった。神仏に拝む以外、道がなかった。疫病は遂に都に入り込み、猛威を振るった。藤原不比等の四人の息子が立て続けにバタバタと死んだ。前回の遣唐使押使として無事役目を果たした多治比県守(たじひのあがたもり)も犠牲になった。
 
 さて、第三船の平群広成のその後はどうなったのであろうか?彼は五つの国を訪れ、六つの海を渡り、一万里(4万キロ)に及ぶ漂流の旅の末、奇跡的に北の海から日本に生還したのだった。平群広成の大冒険旅行記が残っていたら、三蔵法師の『大唐西域記』やマルコホーロの『東方見聞録』と同様世間で高く評価され、多くの人に読み伝えられたであろう。
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2011年11月22日

連載(19)

IMG_2098_3_1.jpg   (連載19)

    8.酒中(しゅちゅう)の仙(せん) 李白(りはく)


 李白(りはく)は玄宗皇帝の妹の推挙により、念願の仕官を果たした。長安(ちょうあん)にて、唐王朝に仕えたのは、七四二年(日本 天平十五年)の秋のことであった。山に囲まれた故郷、蜀(しょく)(四川省成都(しせんしょうせいと))を後にしたのは、李白、二十五歳の春のことであった。あれから苦節十七年、四十二歳での初めての仕官であった。
 彼は蜀の深山で柔術の修行を積んだ道士であった。生まれは蜀ではなく、遠く西域の地、砕葉(さいよう)(キルギスタン)であった。
「我が酒中の剣に敵なし。若かりしころは無頼の輩(やから)を数人あやめたものだ」
 と、うそぶいていた。彼の場合は、確かに、ある程度酒を飲んでいた方が剣にさえがあった。しかし、どれほど剣の腕が強かったかは定かではない。
「酒は剣の乱れを静めてくれるわ」
 正眼にかまえた刀の切っ先は、微動だにすることはなかった。緊張がとけ、雑念を忘れ、雲の中を歩くが如き、無心の境地に近づくことが出来るためであろうか。
「龍泉剣(りゅうせんけん)」の剣一本を無骨に肩に掛け、老酒(らおちゅう)の一升徳利を刀にぶら下げていた。道士の姿で白衣に身を包み、えんじの帯を締め、帯の先を地面すれすれまで垂らしていた。真っ黒な口髭とあご鬚が長く伸びていた。顔は彫りが深く、鼻は大きく高く、肌は茶色で、精悍な容姿であった。彼はいつも遠くの空を仰ぎ、遠くの山を眺め、遠くの河を見つめていた。旅にでた彼が再び故郷の蛾眉山(がびさん)を仰ぎ見ることはなかった。

「李白、お前なら科挙(かきょ)の試験に間違いなく、合格するぞ。受けてみろ」
 かっての科挙の合格者で、今、酒好きの秘書少監(ひしょしょうかん)が言った。彼は若き豪放磊落(ごうほうらいらく)な大詩人を高く評価していた。大変狭き門ではあったが、李白ほどの才能があれば可能であった。身分が低くても、有能であれば「科挙」に合格し、官吏になれる道が開かれていた。
「科挙か」
と、李白は一言いっただけであった。
「たとえ、誰でも受験出来るといっても、李白のように、全くどこの馬の骨か素性のわからん者は受験できんぞ」
 宰相(さいしょう)を宰相とも思わない、態度の大きい李白を嫌っていた皇族出身の宰相が言った。。当時、家系とか家柄は極めて重要であった。
「たとえ、受けたとしても合格はしまい。詩だけできても官吏は勤まらぬわ」
 宦官高力士(かんがんこうりきし)が言った。彼も肌があわなかった。
 李白は科挙の試験を受ける気など、サラサラなかった。李白は自分の血筋を気にしていたが、自分の家柄について、生涯語ることはなかった。よそ者なのか、胡人(こじん)なのか、いずれにしろ、中国二百九十三の氏族の中にも入っていなかった。あるいは、由緒ある家柄に生まれたが、何らかの事件で謀反者の汚名を着せられ、名乗ることが出来なかったのか、あるいは異邦人だったのか。
「我は隴西(ろうせい)(西域)の李氏である」
 と、李白は勝手に名乗っていた。旅先で李姓の人に会うと、
「やあ、叔父さん、兄弟」
 などと、なれなれしく声を掛け、泊めて貰ったり、酒や食事にありついた。しかし、何処行ってもしっくりいかず、長居することはなかった。
 中国中、官職を求め、転々と渡り歩いたが、何処へ行っても認められることなく、歳を取るばかりであった。純真と情熱、尊大と傲慢、卑屈と屈辱、流浪と酒の彩(あや)なす十七年間のさすらいの遊子(ゆうし)であった。
   
     帰ってきても生活の手だてはなく
     我が人生はまろびゆく「蓬(ほう)」の如き

 と、自ら詠っている。蓬は野路菊(のじぎく)のように可憐な花であるが、晩秋になると、花が落ち、葉が落ち、根が抜け、枯れ果て、枝だけが風に飛ばされ、大陸の荒野をあっちへ行ったり、こっちへ行ったり、あてどもなく転がり、さまよう根無し草であった。彼の詩はそんな逆境の人生において、花開いたのである。

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 念願の官吏に採用されたのは、故郷を出て十七年間の遍歴の後のことであった。遂に、玄宗(げんそう)皇帝直々に招かれ、翰林供奉(かんりんくぶ)の職に就いた。李白四十二歳の秋のことであった。玄宗は宮殿を降り、李白を宮城の入口で出迎えた。
「巨匠、待っていたぞ」
「俺を召集するのが少々遅過ぎたようだが、さすが天子は名君だ」
 彼は俄然鼻息が荒くなり、意気軒昆(いきかんこん)と有頂天になって天下、国家を語った。
「国のため、民のため政(まつりごと)を奏(そう)すぞ」
 その情熱と傲慢、その理想と反骨、その純粋と傍若無人は、他の官吏達に受け入れ難く、強烈な個性は官吏には向いていなかった。
 翰林供奉の職は文化人に対する名誉職のようなもので、毎日、宮殿に出廷して仕事をしなければならないわけではなかった。宴会や、天子の行幸(みゆき)に随行し、詩を詠う程度の職であった。

「李白殿、天子様からのお呼び出しです。直ぐに興慶宮(こうけいきゅう)に出廷して下さい」
 と、玄宗皇帝の使いの者が、馬から飛び降り息せき切って呼びに来た。
 李白は例によって、昼間から好きな銘酒「大春(だいしゅん)」を飲んで酩酊していた。
「李白様、天子様がお呼びですよ」
 酔っぱらって、寝てしまった李白の肩を揺すった。酒場の波斯(ペルシャ)美人の女将がうろたえた。
「天子がどうした。女、子供騒ぐな」
「李白様、しっかりして下さい。起きて下さい。どうしよう・・・」
「人生、百歳に至ることは稀れなり。あわててどうする」
 夜光杯になみなみと酒を注ぎながら言った。
この情景をもう一人の大詩人、杜甫(とほ)が詠った。
   
  李白は一斗(いっと) 詩百編(ひゃっぺん)
―李白は酒一斗呑めば 詩百編詠う―
  長安市上(ちょうあんしじょう)酒家(しゅか)に眠る
―長安市中の 居酒屋で酔つぶれ―
  天子、呼び来たれども、船に上(のぼ)らず
―天子からお呼びがあっても 舟に上がろうとせず―
  自ら称す 臣(しん)は是れ酒中の仙と
―自ら称す 我は酒の仙人であると―

 酔いつぶれながらも、飲み屋の裏から船に乗せられ李白は、宮殿にあがった。天子のいる興慶宮(こうけいきゅう)の内裏(だいり)にふらつきながらあがろうとして、側近の宦官高力士に止められた。
「ここは天子様の内裏ですぞ。靴をお脱ぎ下さい」
 李白はそこにどかっと座り込み、酔っぱらった勢いで言った。
「お前は誰だ」
 おつきの者が答えた。
「恐れ多くも高力士将軍様です」
 宦官高力士は帝の寵愛を一身に受ける、今をときめく、玄宗皇帝の一番の側近である。そのことは皆が知っていた。
「なに、高力士か、おい、高力士、我の靴を脱がせろ」
 高力士は激怒した。しかし、天子の面前ゆえ我慢した。
「名のしれた大詩人とは言え、ただの布衣(ふい)の輩(やから)、生意気だ」
 と、腹の中は煮えくり返ったが、言った。
「畏(かしこ)まりました」
「この世は上にへつらい、下におごるやつらばかりだ」
 と、李白は豪語した。
「飲んだくれが」
 この事件以来、高力士と李白は犬猿の仲になった。
「酔った上でのことで大変失礼した」
 などと、李白は一言も謝ることがなかった。

 興慶宮は玄宗が皇位についた二年後、七一四年(開元二年中国)造営された。玄宗はこの宮殿をこよなく愛し、開元の治の政は、ここを中心に繰り広げられた。宮殿の南の庭園には「竜池(りゅうち)」が満々と水をたたえていた。池の辺に、「沈香亭(じんこうてい)」があった。南国から、わざわざ取り寄せた香木(こうぼく)沈香(じんこう)で造られた美しい亭であった。ここは玄宗と楊貴妃(ようきひ)の長安における愛の住みかでもあった。
 春たけなわのある日、楊貴妃は玄宗皇帝に媚(こ)びるように寄り添って言った。
「牡丹の花があまりにも美しいわ、天子様、百官を招き花の宴(うたげ)を開きましょうよ」
「おお、春爛漫、時もよし。そうしよう」
 皇族、貴族、文武百官、文人墨客(ぶんじんぼっかく)、僧侶が沈香亭(じんこうてい)に招かれた。百官の高級官僚が衣冠束帯(いかんそくたい)に威儀を正し、御前に控えた。宮殿の周りには天幕が張られ、千人の儀仗兵(ぎじょうへい)が赤い制服に黒の冠をつけ、黒の帯を締め、天子の御旗(みはた)を掲げて整列をした。太鼓と鐘の音が鳴り渡った。
「天子様、貴妃様のおなり・・・」
 今まで、騒然としていた皆が静まり、先ず、ひざまずいて頭を下げ、立ち上がってまた頭を下げた。李白は、玄宗皇帝の治世を称(たた)え、楊貴妃の美貌を歌った七言絶句(しちごんぜっく)「清平調詞(せいへいちょうし)」三部作を捧(ささ)げた。玄宗は「梨園の弟子(りえんのでし)(皇帝の音楽隊)」に命じ、これを演奏し、歌手、李亀年(りきねん)に歌わせ、自らも笛を吹いて伴奏した。庭園には唐草文様の絨毯(じゅうたん)が敷かれ、波斯(ペルシャ)の胡姫(こき)が胡旋舞(こせんぶ)(西域の舞)を踊った。大曲(たいきょく)(オーケストラ)の楽団が九部(くぶ)(西域地方を含む九種類の音楽)を奏でた。剣と五色の羽衣(はごろも)が春風に光り、激しく舞い上がった。
「天子様は皇帝になっていなければ、希代の芸術家になっていたでしょうね。詩歌、管弦、舞踏にこれだけ造詣が深い皇帝は、いまだかって聞いたことがない」
 と、宮廷では噂されていた。
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2011年11月24日

連載(20)

IMG_2105_1_1.jpg  (連載20)

「あ、あのお方は誰ですか」
 と、楊貴妃は背の高い壮年の一人の高級官僚を指さして、玄宗皇帝に尋ねた。
 驚愕(きょうがく)を顔に出すことを懸命に抑えた。しかし、楊貴妃は胸がドキドキと高鳴り、平生を装うことに苦労した。身体が熱く燃えた。 
「あの時の蓬莱(ほうらい)の人だわ。逢えてうれしい」
 心の中でつぶやいた。今まで、ゆっくりと揺れていた白檀(びゃくだん)の扇子が乱れた。
「あれは日本人の朝衡(ちょうこう)(阿倍仲麻呂)だよ。かっての探花郎(たんかろう)(科挙合格の優等生)よ。いい男だ」
 玄宗皇帝が答えた。
「朝衡様、初めてお目に掛かります。ごあいさつしてもよろしいでしょうか」
「わかった。朝衡を呼んで参れ」
 玄宗皇帝は側近に命令した。
「朝衡様の名は、噂で聞いて知っていたわ、しかし、あの蓬莱の人がその人とは、夢にも思っていなかったわ」
 楊貴妃は心の乱れを隠した。
 朝衡は若い僧侶を伴って玄宗皇帝と楊貴妃の前に現れた。
「朝衡、これが楊貴妃だ。よろしく頼むぞ」
 と、天子は得意げに紹介した。
「楊貴妃様ですか・・・ああ・・・。楊貴妃様、私は朝衡。お目に掛かり光栄でございます」
 仲麻呂は驚きのあまり声が上ずってしまった。
「朝衡、どうした」
 と、玄宗皇帝が言った。
「あまりにもお美しいので・・・」
「そうだろう、そうだろう」
 と、皇帝が満足げに答えた。
「今後ともよろしくお見知りおきのほどお願い申し上げます」
「妾(わらわ)こそよしなに」
 百鳥毛裙(ひゃくちょうもうくん)(鳥の羽と動物の毛皮で作った衣装)の豪華な衣裳を身にまとい、多くの侍女を後ろに侍らし、天子の脇の玉座に悠然と座している女王に圧倒された。
「天子様、噂にも勝る絶世の美人でございますね」
ようやく落ち着きを取り戻して、阿倍仲麻呂は深く楊貴妃に頭を下げた。
「あの時の、あの女が、まさか、楊貴妃だとは思いもよらなんだ」
 と、心の中でつぶやいた。
「よりにもよって、天子様の貴妃とは」
 楊貴妃もたいそう驚いたが、顔には出さなかった。
「あの人が噂さに名高い朝衡さまとは」
 仲麻呂は心の動揺を一生懸命抑えたが、一瞬、真っ暗になった。阿環(あかん)が何か自分から遠く離れた別世界に行ってしまった想いにかられた。空しさにおそわれた。
「朝衡様は蓬莱の人ですか?」
 鳳凰(ほうおう)と宝珠(ほうしゅ)に飾られた黒檀の玉座に坐っていた楊貴妃は、微笑んで、おうように言った。髪に挿している金歩揺(きんほよう)(歩くと揺れる髪飾り)が微かに揺れ、きらりと光った。
「はい。我は蓬莱の人です」
「お供の方はどなたですの」
「我が沙門(しゃもん)(仏門)の師、大唐国の若き高僧、思託(したく)殿です」
「いえ、まだ若輩の修行僧、思託です。どうぞよろしくお見知りおきを」
「高僧思託様。仏の道とは何ですか。教えて下さい」
 楊貴妃は率直にいきなり尋ねた。
「いや、高僧とはとんでもございません・・・」
 思託は天子の御前で、楊貴妃の突然の問いに、冷や汗をかきながらも回答した。
「お恐れながら、仏の道とは―苦にしないこと―です」
 楊貴妃がさらに尋ねた。
「―苦にしないこと―とは、どういうことですか?」
「思うがままにならないことを、思うがままにしようとしないことです」
「そんなこと、出来るかしら」
「あるがままに生きることです」
「あるがままに・・・」
「そうでございます。あるがままに・・・。それが無の境地、悟りです」
「かなわぬ恋は如何に・・・」
 楊貴妃は美しい瞳で朝衡を一瞥して、微笑みながら僧思託に尋ねた。
「・・・天のみぞ知る」
 思託は楊貴妃の難問に苦し紛れに答えた。若き僧は楊貴妃の妖しい美貌に激しく心乱れてしまった。 
「いくら修行したところで、所詮、無駄なことだ」
 思託は心のなかで、嘆いた。

 科挙合格の祝賀の宴を思い出し、仲麻呂は沈香亭の庭に咲き乱れる牡丹の中から純白の大輪を一枝手折って楊貴妃に捧げた。
 いつの間にか近くに来ていた楊国忠(ようこくちゅう)がしたり顔で言った。
「牡丹は紅が一番」
 楊国忠は楊貴妃の甥で楊貴妃を利用して、権力の中枢に昇りつつあった。仲麻呂が皇帝や楊貴妃に寵愛されていることに心穏やかではなかった。
「俗は紅、雅(みやび)は白、牡丹は白 李(すもも)は白」
 酔いが残っている李白が大笑いしながら言い返した。
「古より高貴なる牡丹は紅ですぞ」
 むきになって楊国忠が言った。

 李白が牡丹になぞらえ楊貴妃の美貌を称えた『清平調詞』を詠いあげた。

 雲には衣裳を想い(白雲を見れば楊貴妃の美しい衣(ころも)を思い浮かべる)
 花には容(かたち)を想う(白牡丹を見れば楊貴妃の美しい顔(かんばせ)が目に浮かぶ)

「楊貴妃様、朝衡様とは前からのお知り合いですか?」
「いいえ、どうして?」
「あまりにも、親しげに見えたので」
 楊国忠はかすかに嘲笑をうかべて言った。

 未だ、若い茶人の陸羽(りくう)がお茶を煎じた。皇室でも当時お茶を飲むことが流行っていた。
「陸羽殿、天子様と楊貴妃様に今年の最高のお茶を差し上げて下さい」
 仲麻呂が友人の陸羽に頼んだ。
「これはいずこで採れた茶か。まろやかなよい味だ」
 玄宗皇帝が一服して尋ねた。
「今年の清明節(せいめいせつ)の前に、杭州(こうしゅう)で摘んだばかりの一番茶です。朝霧が消え雲一つない晴天の日の朝、陽の当たる山腹で摘んだ一芯一葉(いっしんいちよう)(枝の先の若い芯とその下の若葉)です」
「香りが素晴らしいわ。銘柄は何というのですか」
今度は、楊貴妃が聞いた。
「湖州紫笋(こしゅうしじゅん)です。芽は紫が一番、形は笋(たけのこ)が一番。天下一の銘茶です」
「水は」
「水は揚子江(ようすこう)の南零水(なんれいすい)」
「南零水とは」
「揚子江の河岸の水は淀んで止まっており腐っています。一方、河の真ん中の水は、水と水とがぶつかり合って濁っています。そのため、河岸と河の真ん中の間を流れている南零の水が柔らかく一番です」
 一杯飲むと芳醇(ほうじゅん)な香りが口の中にふわーっと広まった。
「妾(わらわ)はこの茶が大好きよ」

 金色の二頭の龍が大空に飛躍している壁画が、沈香亭の壁いっぱいに描かれていた。
「これは、何とすばらしい絵ですね。今にも、飛び出てくるような気迫を感じますね」
 絵にもたしなみのある王維(おうい)が批評した。
「誰の絵でございますか」
「巨匠,呉道玄(ごどうげん)の力作よ」
 天子が答えた。
「さすがですね」

 部屋の奥に陶器が飾られていた。器を指して言った。
「奥に飾られている器を見せていただいてよろしいですか」
 招かれていた文化人の一人顔真卿(がんしんけい)が伺いをたてた。
「よいぞ」
 と、天子が言った。
 顔真卿は中国の書道の大家としてよく知られていた。芸術と文学に優れた士大夫(しだいふ)の一家の生まれであった。彼の楷書は「蚕頭燕尾(さんとうえんび)」と言われた。横、縦と筆の初めの入りがまず筆を抑え、後は軽く尖(とがる)るように引く、これが蚕(かいこ)の頭に似ている。筆の最後の出は、筆先が少しバラバラと枝分かれしており勢いがある。これが燕の尾に似ている。筆跡は横の線は軽やかに、縦の線は力強く「姿勢飛動(しせいひどう)」と賞賛された。
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「これはすごい逸品ですね」
「よろしい。ほほ、わかるか顔真卿、おまえは唐代一の書家とは知っておったが、器の眼力もあるとは恐れ入った」
 と、天子が褒めた。
「おお、これは秘色(ひそく)の碗(わん)だ」
 阿倍仲麻呂が思わず叫んだ。それを聞いて皆が奥へと集まってきた。
「朝衡、なぜわかる。これは更に驚いたわい。お前は大したやつだ」
「おお、やはり秘色の碗」
 仲麻呂はびっくりした。三十数年前の少年時代の感動を呼び戻しながらジッと見つめた。
「我が家の家宝と同じだ。これの方が一回り大きいが」
 心の中でつぶやいた。
「秘色の碗とはなんですか」
 僧思託(したく)が小声で仲麻呂に尋ねた。
「唐王朝に代々つたわる皇室の秘宝の器だ」
 薄暗い部屋の奥のそこだけがボーッと明るく輝いていた。
「秘色の碗はそろいの二碗のはずではなかったですか」
 顔真卿が尋ねた。
「よくご存じですね。秘色の碗はもともと対の二個だったのですよ」
 楊貴妃が答えた。
「唐王朝建国の高祖(こうそ)の時代から、皇帝と皇后に受け継がれてきた唐皇室に伝わる最高の秘宝だ」
 天子が答えた。
「天子様、私にはいただけないのですか」
 楊貴妃が笑いながら言った。
「皇帝と皇后が即位したときの証として秘色の二碗が授けられてきた。しかし、朕の時にはどういう訳か一碗しかなかったな。楊貴妃、お前にも授けたかったが、一個しかなかったわい」
 天子は笑って、楊貴妃に言った。
「高宗(こうそう)と王皇后の時までは、二碗揃っていたと聞いていますわ。則天武后(そくてんぶこう)が王皇后を処刑した。そして、王皇后の局(つぼね)をくまなく探したが、秘色の碗を探し出すことが出来なかったと」
 楊貴妃が言った。
「盗まれたのか、砕かれたのか、誰かに与えたのか、王皇后が亡くなってしまった今、誰もその行方を知らない」
 楊貴妃は詳しかった。
「ああ、それで、人呼んで幻の碗と・・・」
 顔真卿が納得して言った。
「幻の碗を探し出せたら、その時は、楊貴妃、愛の証に必ずそなたに授けようぞ」
「天子様。本当ですね。うれしいわ」
 楊貴妃は真顔で喜んだ。秘色の碗を所有していることが皇后の証であった。
 阿倍仲麻呂は黙って聞いていた。
「あれがそうか。何と言う運命の巡り合わせだ。我はその行方を知っている」
 心でつぶやき、遠き少年の日々を想い出していた。
 僧思託は碗をじっと見つめながらしばらく手を合わせた。
posted by いきがいcc at 10:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 20.酒中の仙 李白