2011年11月08日

連載(1)

秘色の碗

−楊貴妃が愛した日本人ー

                               
吉村晴夫

IMG_1854a.jpg  
(連載1)

      1.安倍比羅夫(あべひらふ)の慟哭

 片足の老兵は隊列のしんがりから、遅れまいと重たい松葉杖を中国、北の凍てつく大地にコツン、コツンと響かせながら前進していった。その響きは乾いた大気の中を東西南北に波紋のように広がっていった。丹崖山(たんがいさん)(山東省蓬莱市(ほうらいし)の岬)の丘の上で、ふと立ち止まり、後ろを振り返れば、北に渤海(ぼっかい)、南に黄海(こうかい)、蒼茫たる大海原が果てしなく広がっているばかりであった。
「ああ、これが登州(としゅう)(中国山東半島の港、蓬莱市)の港か。おお、やけに寒さが身にしみる。晩秋の雁(かりがね)がねぐらに飛んでいくわ。こんな遠くまできてしまったわい」
 老兵は一人立ち止まってため息をついた。背筋を伸ばし頭(こうべ)を上げて、大海を見つめながらつぶやいた。日本、朝鮮にとって、登州は古代中国大陸への玄関口であった。
 六六三年(日本 天智(てんち)二年)の暑い夏は終わった。日本と百済(くだら)の連合軍は、唐と新羅(しらぎ)の連合軍に朝鮮半島の北西の地、「白村江(はくすきのえ)の戦」において、敗北した。日本の多くの兵隊は捕虜として唐国に連れて行かれた。

 ザワザワドプン、ザワザワドプン。
 丹崖山(たんがいさん)岬の足もとの赤い岸壁には、北海の波が白く砕けては散っていた。遠く眼下に見える海岸のまばゆいばかりの白さは、砂ではなく貝のなきがらであった。無数の貝殻は寄せては返す波に洗われ、太陽に晒(さら)され、砂浜に自ら光り輝いていた。老兵はまた歩きだした。前方の眼下には柏楊(はくよう)の並木道が地平線の彼方まで、果てしなく続いていた。
 開元寺(かいげんじ)の古木(こぼく)には寒鳥(かんちょう)が鳴き、空山(くうざん)に夜猿(やえん)が啼く。蕭蕭(しょうしょう)と悲風(ひふう)千里より来たる。寂寞(せきばく)とした大荒野を、南下するに従い、泰山(たいざん)(山東省にある名山)の頂が少しずつ眼前に大きく迫ってきた。
「おお、あれが聖なる山、泰山か・・・なんと、雄大な山だ」
「「しんがりの奴隷、何をしゃべっておるのか。黙って歩け」
 唐の分隊長が大声で怒鳴った。
 唐軍の率いる百済遠征部隊は、凱旋して都に向かっていた。敗れた日本軍の捕虜数千人は、奴隷として、朝鮮半島から船に乗せられ、中国に連れてこられた。登州で下船させられ、第二の都、洛陽(らくよう)へ向かう唐の西行(せいこう)軍に従っていた。
 
 百済は、この度の白村江(はくすきのえ)の戦いより三年前、唐と新羅の連合軍にすでに一度敗北していた。白村江の戦いは二度目の敗戦となり、百済はここに完全に壊滅したのである。
白村江の戦いにおける日本からの援軍の大将は、先の片足の老兵、阿倍比羅夫(あべのひらふ)であった。
阿倍比羅夫は,筑紫太宰師(つくしのだざいのそち)(太宰府の長、正四位相当)の要職についていた。天皇から高い評価を得ており、当時、最も信頼に足る日本の名将であった。阿倍比羅夫は二度にわたり、飽田(あきだ)(秋田)、渟代(ぬしろ)(能代)を平定し、渡島(おしま)(北海道南部)まで遠征した。阿倍家はもともと武人として、皇室に仕えてきた由緒ある氏族であった。

 六六二年(日本 天智元年)三月、日本は建国以来初めて二万七千人の大軍を朝鮮半島に派遣した。四百艘の船が朝鮮海峡を越えて行った。春の日本海は、赤、黄、青の吹き流しをはためかせた軍船で一杯であった。その軍団の兵、船の数は唐・新羅連合軍よりはるかに勝っていた。日本の威信をかけての大船団であった。   
 しかしながら、日本水軍はただ満ち潮にのって、白村江の河口へと突入するだけで、底の平たい、たらいのような日本の船は波間にくるくると回るだけであった。唐水軍は両岸に船をならべて、両岸から日本軍を待ちかまえて、火攻めにした。多くの船が炎上し、大海が真っ赤に染まった。
 唐と日本の軍船が、荒波の中で激突し、阿倍比羅夫は吹っ飛ばされた。両船に挟まれ右足の膝頭がグシャとつぶれた。彼はブラブラになった激痛のはしる右足を岸辺の岩の上に投げ出した。
「俺の右足を太股から一刀のもとにたたき切ってくれ」
 と、副将に言った。そして、彼に天皇から賜った名刀を渡した。
「大将、よろしいですか、いきますよ」
「おお、頼む」
 副将は骨もろとも、見事に一刀で大将の足を切断した。ガツンと力余って、刀が岩肌に炸裂し、名刀の刃が光ってこぼれた。ドサッと、大将の切断された足が岩から落ちた。鮮血が晩夏の群青の空に勢いよく吹き上がって舞い散った。大将は切断されたおのれの足を一瞬見つめたが、それをつかみあげ坐ったまま、太い腕で力まかせにグルグル振り回して、白村江の河に投げ込んだ。ドボーン。それと同時に彼は倒れ気を失った。熱い八月の太陽の光の中で、鬨(とき)の声が遠くから聞こえてきた。
「いいか、大将の太股の皮膚を引っ張り、引き下げ麻縄で、腸詰めの端のように結びあげろ」
 副将が部下に命令した。
「河の水で傷口を洗い、薬草蓬(よもぎ)で止血しろ。急げ」
 ほとばしる鮮血が白砂(はくしゃ)にあっという間にしみ込んでいった。
「あの洞窟に逃げ、大将を安静に寝かせろ」
 彼は三日三晩意識不明のまま眠っていたが、奇跡的に息を吹き返した。
「おお、大将が生き返った。裏山にいって、太くて、堅い木を採ってこい。大将の松葉杖を作るのだ」
 副将は、意気込んで船大工の部下達に命令した。樫の木で、頑丈な松葉杖を作り、大将に与えた。
「これはありがたい。しかし、えらく重い松葉杖だな」
 と、言ながらも彼はそのズシリとした重量感が気にいっていた。
 しかし数日後、大将とそれに付き添う敗戦の兵は、唐軍に発見され捕虜として捕らえられた。日本軍は大敗したのであった。
「安易におのれの命を落とすでないぞ。命あっての物種だ」
 阿倍比羅夫は、武人として決して死を恐れる男ではなかった。片足を切断しても生に執着したのは、日本が体験した世界大戦にみじめな敗北を喫した将軍としての責任を感じていたためだ。これからの日本のため、この体験と敗北の原因を後世に伝える必要を強く感じていた。
「このままでは、日本(やまと)が危ない」
「はい。大将」
「皆、生きるのだ。死んではならぬぞ」
 部下をはげます言葉は自分にも向けた言葉だった。

 阿倍比羅夫は、白村江の敗戦の原因は戦略、戦術、内紛が全てではなく、それはまぎれもない国力の差であった。唐軍の武器は近代的であり、船の構造、強固さ、速さが日本軍のそれとは全く異なっていた。
「獅子と鼠の戦いだ。たらいのような船を何隻揃えたところで、しょせん大唐国の敵ではなかったわい」
 と、比羅夫はつぶやいた。
 大唐国は世界最大の強力国家であった。西は突厥(とっけつ)、波斯(ペルシャ)、東は高句麗、新羅までその勢力下にあった。百戦錬磨の戦いを勝ち抜いてきた強者どもがいくらでもおり、日本とは格が違っていたのである。
 中国の長い歴史は戦争の連続であり、動乱と分裂の繰り返しであった。多くの優れた武器、兵法が受け継がれていたのである。国土は地平線の彼方まで広がっており、長安(ちょうあん)、洛陽(らくよう)は想像を絶する華麗な都市であった。壮大な宮殿が甍を連ねていた。北の山々には果てしなく長城(ちょうじょう)が築かれていた。大運河は揚州(ようしゅう)(上海の近く)の港から洛陽の都まで、延々何千里とつながって水をたたえていた。律令国家、官僚制度、仏教寺院、文化芸術は日本と比較できないほどの高さであった。まさに、当時の世界大帝国であった。
「わしは、秋田の蝦夷を征伐し、得意げになっていた井の中の蛙だな。ようこんな大国を相手に戦かったもんだ」
「はるかなる黄河はまるで海のようだ」
 副将が相づちを打った。
 その後の長い歴史において、島国日本は同じ過ちを何度も繰り返すことになった。 阿倍比羅夫は雄大な黄河の辺にたたずんで後悔した。
「天下を知らず。敵を知らず。おのれを知らず。頭をしたたかに殴られ、我に帰った。日本(やまと)は、俺は、天下に目を向けなければいけない。島の中におっては、何も見えぬわ。大唐国の全てを学び、吸収し唐と天下を二分する国家に作り上げなければいけない」
 と、誓った。
「白村江の海に沈んでいった、何万の兵士の命を無駄にしてはいけない。このままでは日本が滅ぶ。二度と繰り返すな。死ぬことは簡単である。神の庇護がある限り生きながらえて、日本に帰り国家興隆を図ろう。大唐国の偉大さを学び、なんとしても誰かに託し、後世に繋げなければならない」
「そうだ。知らないで死んでいくよりも、知って生きたい」
 と、副将も相づちを打ち、心の底で、力強くつぶやいた。
「頭(こうべ)をあげて天下を見わたせ。唐国に学べ」
比羅夫が言った。(1-2011.11.1)
タグ:阿倍比羅夫
posted by いきがいcc at 19:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 1.安倍比羅夫の慟哭

連載(2)

no2.jpg (連載 2)         

 唐軍が黄河沿いに進み、洛陽に到着したのは、秋も、もう終わりの頃であった。秋の日暮れは短く、大河を吹き抜ける風に河岸の乾いた柳がかすかに揺れていた。河と空はすべて、靄(もや)の中に包まれ対岸も東も西も茜色(あかねいろ)に染まっていた。
 一片 (ひとひら)の夕焼け雲が落日の陽をうけて、黄金色に輝いていた。遙か遠くに連なる黄昏(たそがれ)の黄河は、雲間に消えていた。洛陽は華麗なる水の都であった。東西南北約六―七キロ四方の城壁に囲まれた、長安の半分ほどの美しい都城であった。一行は東北の半円型の上東門(じょうとうもん)より城内へ入って行った。
「これが洛陽城か。すごいものだな」
 老兵は松葉杖にほおづえをし、ため息をつき、ほっとしてつぶやいた。
「奴隷ども、整列をして並べ」
 唐の分隊長が命令した。
「日本(やまと)の大将、お前は誰だ、名を名乗れ、」
 宰相(さいしょう)に従って、閲兵していた司刑少卿(しけいしょうけい)の周興(しゅうこう)が怒鳴った。命を惜しんで、恥をさらしてなぜここまで生き延びてきたのかと、なじられているようであった。
 老兵の長く伸びきった髪は、白髪混じりであった。眼孔は落ち込み、両頬はそげ落ちていた。老兵には見えるが、実際の年は四十を一寸越えたところであった。ただ、ギョロっとした眼光には、捕虜の打ちひしがれた影は微塵(みじん)もなかった。松葉杖をつかむ両腕と厚い胸には、たくましさがまだみなぎっていた。
「我は今、将校にあらず、蓬莱の彼方から迷い込んだ一老兵である。貴殿に今更、名を名乗る程の者ではないわ・・・」
 敗戦の将が言った。
「だまれ、だまれ」
「唐国は天下一の大国だ。我が日本は足下にも及ばない。こんな大国とよくも戦争したもんだ。命のある限り貴国から多くを学び、故国に持って帰りたいものだ。ハッハッハッ」
 老兵は続けて喋った。長身の赤銅色の精悍な顔で、周興を見下ろした。まるで捕虜であることが嘘のように、生き生きと力強く見えた。
 軍隊、武器、兵法、仏教、寺院、都市、宮殿、運河、長城など見る物、聞く物全てが彼にとっては驚異であった。唐は当時、世界最先端をいく文明国家であり、日本は野蛮国、東夷(とうい)と呼ばれていた小国であった。
「わからんのか名を名乗れ、さもなくばこの場で首をたたき斬るぞ」
 周興は軽くあしらわれたと思いこみ、憤りまた偉そうに怒鳴った。
 日本の老兵は厚い胸をグット前に張って、微動だにせず答えた。
「我が身はすでに貴殿の下にある。斬りたければいつでも好きなときに斬り捨てなされ。覚悟はとうにできておるわ・・・。ここまで恥を忍んで生きながらえてきたのだ、せめて冥土の土産に長安見物ぐらいさせて欲しいものだ。ハッハッハッ」
 相手を威圧する大声で喋った。その乾いた声は洛陽の街に朗々(ろうろう)と響き渡った。
「こやつ。なにを」
 と、かすれ声をあげながら周興は興奮して、老兵の足を蹴り上げた。重い松葉杖が空(くう)に舞い、そして落下し大地に埋もれた。片足の老兵は、バサッと倒れた。黄土(おうど)の砂塵がパッと舞い上がった。司刑少卿は震えながら、抜刀した。老兵はゆっくりと、立ち上がった。そして深い晩秋の天空をジッと見つめていた。細かい黄塵(こうじん)が老兵の回りにモウモウと立ちこめて、何時までも消えることがなかった。元部下の捕虜たちが、大将の回りを取り囲んだ。辺りは騒然とした。
「大将、大丈夫ですか」
 副将が駆けよって、土にめり込んだ松葉杖を取り上げ、大将阿倍比羅夫(あべのひらふ)に渡した。
「おお、すまぬ」
 老兵は落ち着いてうなずき、松葉杖を受け取った。
「敗戦の将とはいえ片足の大将を蹴り上げるとは、貴様(きさま)、恥ずかしくないのか」
 副将が大声でなじった。
「奴隷の分際で、なにをほざくか」
「軍人の風上にもおけぬ野郎だ。両足のある俺を蹴り倒して見ろ」
「何を」
 副将はものすごい剣幕で、抜刀している周興の前に、素手でツカツカと立ちはだかった。小柄の副将が大きく見えた。
「奴隷ども騒ぐな元の位置に戻れ。周興、刀を納めよ。片足の老いぼれでは奴隷としても役には立たぬわ。雨露を凌(しの)ぐ住みかを与え、捨ておけ」
 間髪を入れず、宰相(さいしょう)狄仁傑(てきじんけつ)が鋭く大声で命令した。
「蛮国東夷(ばんこくとうい)の敗戦の兵とはいえ、さすが大将だ。今の唐国にあれだけの大物の武将が何人いるだろうか。二人とも殺すにはしのびないわ。大した野郎だ」
 心の中で宰相は独りつぶやいた。
「どちらが捕虜かわからんわ。情けないのう。周興のばかめが。捕虜の前で刀など振り回しおって」
 吐き捨てるように言って、宰相はその場を立ち去った。

 副将は洛陽に到着後、しばらくして死んでいった。
「樫の松葉杖の内側をくりぬいて、砂金を詰め込んであります。大将、世話になりました。無念だが、おさらばです。日本国(にやまとのくに)を頼みます」
 最後に彼は一言、大将の耳元でささやいた。
 副将は大戦に負け、唐軍に捕まる寸前に考えた。部下の船大工に指示し、軍資金の砂金をできる限り二本の松葉杖に、埋め込ませた。残りの砂金は全て唐軍に没収されてしまった。松葉杖だけは取り上げられることはなかった。阿倍比羅夫はいくら樫の木とはいえ、えらく重かった訳が、ようやくわかった。部下の機転を感謝した。
「黄金の杖か。異国の奴隷にとって金よりありがたい物はない。礼を言うぞ。世話になったな」
 すでに息を引き取った部下に語りかけた。
 重すぎる松葉杖を何度か投げ捨てようと思ったが、黄金を持っていてよかった。日本人捕虜はバラバラにされ、それぞれ奴隷として連れていかれた。
「元気でな、がんばれよ。死ぬなよ、さらばだ」
「日本に帰れることだってあるさ。達者でな」
 皆、一言二言別れの言葉を交わし、黙って凍てつく異国の大地に散っていった。
 阿倍比羅夫には師走の寒風が心にしみた。断腸の思いで、胸は涙であふれかえっていた。多くの部下を死なせ、捕虜にさせた責任を痛感していた。難波津(なにわつ)の港を多くの妻子が出航の兵士達を送っていた姿が目に浮かんできた。皆が意気揚々と凱旋して帰ってくることを信じていた。
「勝っても負けても必ず元気で帰ってきてね。待ってますからね。」
「お前、もう一人、できたのか」
 比羅夫は妻の懐妊をその時初めて知った。
「ええ、そうよ。日本に戻ってくるころには生まれているわよ」
 と、難波津の櫻吹雪の下で、うれしそうにささやいた、若い妻と六歳の息子、宿奈麻呂(すくなまろ)の顔が目に浮かんだ。妻の胎内には二人目の子、安麻呂(やすまろ)が宿っていた。あれが最後の別れとなろうとは。
「今は幾つになっていることであろう。皆、達者かな」
 指折り数えた。大将は辺りにはばかることなく、男泣きに大声で泣いた。黒い無精ひげが涙で白く凍った。

 ここで、白村江(はくすきのえ)の戦いの前、七世紀の東洋の歴史について一寸触れておこう。
 六四五年(日本 大化元年)日本は「大化の改新」で律令国家を作り上げた。飛鳥宮(あすかみや)で時の権力者、蘇我入鹿(そがのいるか)が中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(天智天皇)によって暗殺された。天皇家による中央集権の律令国家が築かれた。日本は新興国として破竹の勢いで国家統一をすすめた。世界に目を向け、聖徳太子は遣隋使を派遣し、仏教を導入し、中国大陸に学ぶことを始めた。
 また同じ年、『西遊記』で有名な玄奘(げんじょう)(三蔵法師(さんぞうほうし))が仏教の教典を求め、中央アジア高原を通り抜け天竺(インド)への大旅行から無事長安に戻ってきた年でもある。国の掟を破って、仏教の教典を求めて遠い天竺へ旅立ったのは、壮年三蔵法師二十七歳、六二九年であった。長安(ちょうあん)の金光門(きんこうもん)が開き三蔵法師は、西域巡礼の旅姿で夜明けを告げる暁鼓(ぎょうこ)(太鼓)の音と共に、長安の街を密かに抜け出した。仏教求道(くどう)の苦難の長い旅路となった。長安に無事帰ってきたのはそれから十七年後の六四五年、四十四歳のことであった。のちに、『大唐西域記(だいとうせいいきき)』を著した。
 七世紀の朝鮮半島には北に高句麗、南東に新羅、南西に百済の三ヶ国が鼎立(ていりつ)し、互いに覇権を争っていた。そして朝鮮半島を挟んで西の大陸に大唐国、東の海中に日本国が存在していた。
 百済と日本連合軍は、六六三年(日本 天智元年)唐と新羅連合軍に白村江の大戦にて破れた。ここに百済は完全に滅亡し日本国は朝鮮半島から撤退した。新羅はついに念願の朝鮮半島統一の夢を果たした。
 そして、日本の国名が「倭国(やまと)」から「日本国」と改められたのも、ちょうど八世紀の初め頃であった。(2−2011.11.2)
タグ:藤原鎌足
posted by いきがいcc at 19:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 2.安倍比羅夫の慟哭

連載(3)

tousansai.jpg  (連載 3)

     2.女帝則天武后(そくてんぶこう)の陰謀


「俺についてこい」
 宰相(さいしょう)の部下、周興(しゅうこう)が相変わらず、生意気な態度で阿倍比羅夫(あべのひらふ)に命令した。洛陽(らくよう)の街の真ん中よりやや北側に、東西に黄河の支流洛河(らくが)が流れていた。
「洛水(らくすい)、都を貫きて、河漢(かかん)(天の川)の象(かたち)有り」
 と、言われたていた。
 その河の東端の北側にある「温洛坊(おんらくぼう)」に連れてこられ、一軒の小さな家に案内された。家の周りは白い土塀で囲まれており、南北に前門と後門があり、東西には小さな三つの門構えがあった。門の上には瑠璃色(るりいろ)の甍が並んでいた。
「お前は年寄りで、片足がないので、奴隷として引き取り手がいない。ここがお前の住みかだ。好きなように暮らせ。二、三日の内に、賄(まかな)いの女がくる。ただし、洛陽城内で暮らすこと。城外に勝手に出かけることはまかりならないぞ」
 と、横柄に言い捨て、比羅夫一人を残して帰って行った。
「奴隷には身に余るよい家だ。大唐国の宰相はいいやつだ」
 これは奴隷に対しては特別の待遇であった。屋内には日常調度品が一通りそろっており、すぐに生活するのに不自由はしないようだ。
「これはなんと、紫檀(したん)の座り机の上に唐三彩(とうさんさい)(陶器)の筆立か、端渓(たんけい)(広州の西)の硯(すずり)も素晴らしいな」
 窓に射し込む、早春の陽光に唐三彩の駱駝(らくだ)が天空を仰いでいた。黄、緑、茶、藍、白が自ら発光しているように輝いていた。自然の岩石のかたまりを二つに砕き中をくり抜いた端渓の硯など、文房四宝(ぶんぼうしほう)、皆よい作りだ。庭には一本の楓(かえで)と一本の柿の木が植っていた。かすかに若葉色の芽を吹いていた。小さな家であったが、誰か風流人が住んでいたと思われる小ぎれいな家であった。
「楓の若葉が屋内までさしこんでいる。なかなか風情があるわい」
 阿倍比羅夫は大唐国宰相狄仁傑(てきじんけつ)の心の大きさ、心配りに感謝した。

 三日目の朝、賄(まかな)いの女がやってきた。服装は地味で、貧しい奴隷の姿であった。
「本日から、あなた様の身の回りをお世話させていただくことになりました。どうぞよろしくお願い申し上げます」
 と、言って阿倍比羅夫の目をじっと見つめて女は挨拶した。
「こちらこそよろしく頼みます」
 比羅夫はその立ち居振る舞い、話し方から、ぼろをまとい隠してはいるが、元は身分のある貴婦人だとすぐにわかった。よく見ると年の頃も若く、まだ三十を越えたばかりのようであった。どことなく、憂いの中にもたおやかな雰囲気を持っていた。比羅夫は、一年前の春に妻と別れてから女のことを忘れていた。男は戦争のこと、部下のこと、日本国のことばかり考えていた。
「美しい女人だ」
 久しぶりに見る女がまぶしく見えた。回りが急に明るくなった。抱きたい欲情にかられた。
「俺は奴隷として囚われの身だ」
 どのような素性(すじょう)の女か計りかね、思いとどまった。一方、女も比羅夫を一目みて思った。
「あの目の輝きそして太い腕、厚い胸、唯の男ではないわ。野性的な男らしさを感じるわ。日本(やまと)の大将と聞いてはいるが・・・」
 不安と期待が交錯していた。
「脚がご不自由ですのね。何でも言いつけて下さいな」
 女は優しく声を掛けた。
「ありがとう。脚は戦争でやられた」
 女の後姿のうなじにどこかさびしさが漂っていた。

 実は以前より、宰相狄仁傑(てきじんけつ)は古くからの朋友である秦懐玉(しんかいぎょく)から頼まれていた。
「おい、狄仁傑。玉蘭(ぎょくらん)にふさわしい、いい相手はいないか。美しい彼女をこのまま女奴隷としてかくまい、一生を終わらせるのはあまりにも忍びないぞ」
「しかし、家柄のよい高級女官だったとは言え、過去を持つお尋(たづ)ね者の女だ。世間に知れることなしに、よい相手を見つけるのは、なかなか難しいことだぞ」
 彼は阿倍比羅夫を見たとき、ふと玉蘭のことを思い出した。
「そうだ、玉蘭の相手にあの日本の大将がふさわしい。いい男だ」
 数年後、二人が相思相愛のもと一緒になり、子までもうけたことを知り、秦懐玉(しんかいぎょく)
が言った。
「お前は非情の軍人宰相と皆から恐れられているが、なんと月下氷人(げっかひょうじん)(男女の中を取り持つ仲人(なこうど))とは恐れ入りました」
「当たり前よ。我は弱き者に優しい男だ」

 女は玉蘭(ぎょくらん)と名乗った。玉蘭がおのれの過去について阿倍比羅夫に語ってくれたのは、逢ってからちょうど一年後の早春のことであった。彼女は唐の歴史の背景を交えながら、語り始めた。
「嫌な想い出が多いのですが、あなた様には皆お話ししますわ」
 それは今から八年前、六五五年(日本 斉明元年六年)のあまりにも忌(い)まわしい事件であった。そして、彼女の幸せな人生を地獄のどん底に陥れたのであった。

  六四九年(日本 大化五年)唐の二代皇帝太宗が死去した。名君、太宗による太平の世「貞観の治(じょうがんのち)」と呼ばれる時代が終わった。性格の優しい温厚な李治(りじ)が三代皇帝高宗として即位した。確かに、太宗から高宗への皇位継承は平和的に禅譲(ぜんじょう)されたが、結果として、軟弱、優柔不断な皇帝を生むことになり、則天武后(そくてんぶこう)というとんでもない女帝を生む温床となったのである。

 李治が三代皇帝高宗として即位したのは、二十二才の時で、皇太子妃であった王氏(おおし)が皇后になった。王氏の家柄は高く、王皇后は美貌と知性の高いほっそりとした気品のある色白の凛々しい女であった。
 しかし、残念ながら子に恵まれず、「王皇后にはなぜ子供ができぬのか」と、高宗は嘆いた。高宗の愛情は王皇后からだんだん遠のいていった。高宗の愛を一人占めしたのは妖艶で明るい後宮(こうきゅう)(側室)の簫淑妃(しょうしゅくひ)であった。高宗の第四王子の生母であり、二人の女子をも生んでいた。王皇后は簫淑妃を妬(ね)ましく思うようになった。
「何とか、高宗の愛情を取り戻す手だてはないものか」
 と、色々思いを巡らしていた。
「そうだわ、高宗がまだ皇太子で若かったころ、武照(ぶしょう)という家柄は低いが絶世の美人がいたわ」
 武照は高宗の父、太宗の愛人であったが、高宗が寝てもさめても、彼女に恋いこがれていたことを想い出した。
「あの武照を後宮に連れ戻し、高宗の愛を一人占めている簫淑妃(しょうしゅくひ)から気をそらさせようか」
 と、侍女に話を持ちかけた。
 かつて、高宗はまだ皇太子であり、父、太宗皇帝の愛人を自分のものにするなどという、大それたことは出来なかった。しかし、太宗が病の床についたころから、人目を盗み高宗は、密かに武照を自分の女にしていたのであった。妻の王皇太子妃はそれを知っていた。親子を揃って愛の虜(とりこ)にした武照は、身分が低かったが、魔性の傾国(けいこく)の美女であった。
 太宗が崩御(ほうぎょ)した今、武照を後宮に呼び戻すことにより高宗の愛情を分散させ、高宗の愛を一人占めしている簫淑妃との力関係を有利に取り戻そうと、王皇后は考えた。
 武照は太宗が死去すると同時に宮中を下がり、尼僧として得度(とくど)(出家)し、太宗の菩提を感業寺(かんぎょうじ)に祀(ま)っていた。武照が太宗の後宮に上がったのは十四歳、尼僧になった時はまだ二十二歳の女盛りであった。
 皇后は太宗の命日に感業寺に参拝するよう高宗に勧めた。
「たしか、この尼寺には武照という、あなたの初恋の人がいたはずだわ。太宗様もすでにお亡くなりですし、一度お逢いになってみて、よろしければ、後宮に呼び戻されたらどうですか」
 この女の浅はかな策が、結局、王皇后の人生を奈落の底におとしめ、破滅を招くことになるのである。
「そうだったかな、忘れていた」
 願ってもないことを正妻の王皇后から、突然正面切って言われ、高宗はうろたえた。忘れたことなど一度もなかった。
「武才人(ぶさいじん)よ、髪を蓄(たくわ)えるがよい。いずれ迎えに来ようぞ」
 と、高宗はわざと無表情に、鷹揚(おうよう)に言った。武照は髪が伸びるのを待って官中に招かれ、高宗に再会した。
 武照は高宗に走りより、すがりついて、離れようとしなかった。桃色の紗衣(きぬごろも)の胸元が涙でぐっしょりと濡れ、はち切れそうな玉の乳房が透き通って見えた。乳首がツンと突き出ていた。
「高宗様、お懐かしゆうございます。お逢いしたかったわ。うれしい」
 高宗は武照を抱き寄せ乳房をまさぐりながら、うれしさをあらわにして言った。
「おお、朕もお前に再会出来てうれしいぞ」
「ああ、こんなところで」
 と、恥ずかしそうにくるりと後ろ向きになった武照の胸のふくらみに、高宗はかまわず後ろから両手で触れた。薄く染まった乳房がかすかに震えた。
「もう、離れませんわ。おそばにおいてください」
 と、武照はいじらしくけなげな女を演じ、高宗のおもうがままに身をゆだねた。久し振りの男の愛の手に激しく悶えた。
タグ:玄宗皇帝
posted by いきがいcc at 19:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 3.女帝則天武后の陰謀

連載(4)

gyokuran.jpg   (連載 4)

 高宗はかわいい武照(ぶしょう)の愛の虜となった。武照は生まれながらに、男を虜にする魔性を持っていた。額は広く、あごも多少はっており、切れ長の目が美しく、知性的な絶世の美人であると同時に、愛らしい男を惹(ひ)きつける官能的な美しさを兼ね備えていた。彼女はこの降って湧いたチャンスを逃すまいと必死である。
彼女こそ中国唯一の女帝、則天武后(そくてんぶこう)その人であった。
 武照はすぐに昭儀(しょうぎ)の高位についた。
「武照様ご立派になられましたね」
 昔からの侍女、小喜(しょうき)がうれしそうに言った。
「昭儀は後宮九嬪(きゅうひん)(後宮の九つの位)の中で最高の位だわ。しかし、その上に淑妃(しゅくひ)、徳妃(とくひ)、賢妃(けんぴ)の三夫人、更に上に貴妃(きひ)、皇后がいるのよ」
  武昭儀は高宗の寵愛を武器に、多くの権力者に取り入り、また自分に反対する者は巧みに陥(おとしい)れ、一歩一歩権力の座へと登っていった。遂に、恐れ多くも皇后の地位を奪おうとの、大それた女の欲望を持つようになった。
 武昭儀といえども、前皇帝の愛人で身分も低い身では、そう簡単に皇后の地位を得ることは出来なかった。また世間もそう簡単には許さなかった。
「妾(わらわ)は皇后になる」
 武昭儀はうそぶいた。権力と虚栄に執着する女の性(さが)は非情にも手段を選ばなかった。

 六五五年(日本 斉明元年)、三年前すでに男子を生んでいた武昭儀は、高宗の女子を生んだ。王皇后は武昭儀の恐ろしさに気が付きだしていた。自分が落ち目になりつつあることに心中穏やかではなく、嫉妬と憎悪の念に駆られていた。しかしながら、高宗に女子が誕生したことを祝い、侍女・玉蘭(ぎょくらん)を連れて、武昭儀の局(つぼね)に赤ん坊を見舞いに行った。事前に連絡しておいたが、武昭儀は部屋にいなかった。
「訪れることを連絡しておきましたのに、武昭儀はいませんね」
 と、武昭儀の侍女・小喜(しょうき)に嫌みを言った。
「失礼ながら、急に天子様からお呼びがあり、参上されました」
 と、小喜は下を向いたままとぼけた。
「一寸、赤ん坊を抱いてもよろしいか」
「どうぞ、皇后様」
 と、侍女はうつむいたまま答え、ニヤリと笑った。
「玉蘭、赤ん坊はかわいい。天子様に似てるのかね」
 皇后は、その母親とはかかわりなく、赤ん坊はかわいいと思った。
 玉蘭は赤ん坊の顔をのぞき込み、ギクリとした。
「あら、これは、違う。替え玉だ・・・大きい」
 と、心の中で叫んだ。女の勘である。
 王皇后と玉蘭が部屋を出ていった後で、小喜は武昭儀の命令に従い、直ちに行動を起こした。水を含んだ布で、赤ん坊の鼻と口を塞(ふさ)ぎ窒息死させたのだ。やがて、武昭儀が高宗を伴って部屋に入ってきた。武昭儀はふとんをめくって赤ん坊を抱き上げ、高宗に抱かせようとした。
「天子様、どうぞ抱いて下さい。かわいいですよ」
 その瞬間、絶叫した。
「これはなんと、冷たいわ、死んでいる」
 武昭儀が泣き叫んだ。
「死んでいるではないか、お前は、お前は一体何をしていたのか」
 と、気が狂ったようにわめき、侍女の小喜を問いつめた。
「申し訳ありません。申し訳ありません」
 と、侍女は震えて泣きながら、ひれ伏すばかりであった。
「泣いてばかりいてはわからないではないか」
「先ほど、皇后様がお見えになった時は、お元気であったはずですが」
「お前も一緒にいたであろう」
「赤ん坊が泣きやまないので乳を飲みたいのではないかと思い、乳母を探しにいき、いま戻ってきたばかりです。申し訳ありません」
 女二人の命がけの名演技であった。

「これは罠(わな)だわ。恐ろしい」
 玉蘭は罠にはまったことに、すぐ気が付いた。
 高宗の皇后に対する愛情はすでに冷え切って、皇后と武昭儀に確執があることは世間の皆が知っていた。
「いくらなんでも、自分の産んだ赤ん坊を殺すはずがないわ」
 と、女官達がささやいた。赤ん坊を殺した疑いは、子供の出来ない皇后にかかった。
 その後の調べで、武昭儀の部屋から皇后の紋の入った布きれが発見された。王皇后は武昭儀とその侍女の罠にはまった。女の恐ろしさに女は身震いした。
「神仏に誓って、皇后様は赤ん坊を殺してなどいません。私は、常に皇后様のお近くにお供していました」
 皇后の侍女・玉蘭は調べに対して頑として言い張った。
 しかし、赤ん坊が替え玉にすり替えられていたこと、罠にはまったことついては口を閉ざして、何も話さなかった。
 高宗は、嬰児殺しの犯人は、皇后であるとすっかり信じてしまった。
「皇后には子ができず妬(ねた)んだのであろうが。殺さなんでもよいものを、哀れで愚かな女よ」
 この事件の起きる一年前、王皇后の最大の後ろ盾であった叔父の宰相は、武昭儀派により失脚させられていた。また、太宗時代の名臣で軟弱な高宗のため後見役を頼まれた重鎮達で、武昭儀の皇后冊立(さつりつ)に反対していた王皇后擁護派は、皆、次々に左遷され失脚していた。
「あれは罠だ。武昭儀の陰謀だ」
 と、知っていても、かばってくれる人はもう誰もいなかった。
「妾の浅智恵であった。自業自得だ」
 と、皇后王氏は今になって後悔した。

「お前も見て知っての通り、残念ながら、武昭儀の謀略、陰謀はもはや手が付けられない。恐ろしいことよ。皇帝の愛はもはや私から離れてしまい、皇后の座を奪われるのも時間の問題だわ。お前とは皇太子妃時代からの長いつき合いであったけれど、落ち目の人間には冷たいのが人の世の常。皆、私の下を去っていった」
 ある朝、王皇后は侍女、玉蘭(ぎょくらん)を呼んで言い聞かせた。
「玉蘭、お前は武昭儀派からの脅しや、賄賂に屈することなく、今日まで命をも顧みず、皇后は嬰児殺しなど断じてしていないと、毅然と私をかばってくれた。心の底から感謝しています、ありがとう。しかし、悔しいことだが、もはやお前を守り通すことすら私には出来なくなった」
 皇后は涙ぐんで言った後、手招きし小声で言った。
「皇后様、女である私が、女ほど恐ろしものはないと悟りました」
「ここに金(きん)を用意してあります。明朝夜明けと共に春明門(しゅんめいもん)に行くと、男が待っています。彼と共に洛陽の秦懐玉(しんかいぎょく)の館を尋ねなさい。誰にも話さず、誰にも気づかれず、必ず明朝、長安の都を離れ、当分の間、秦懐玉のもとで身を隠していなさい。彼は信頼のおける人だから、安心してよいわ。玉蘭、あなたはまだ若いのだから幸せを掴んで」
「王皇后様・・・。ありがとうございます」
 玉蘭は何といっていいかわからなかった。
「それから、これは昔、愛の証に皇帝からいただいた唐王朝に伝わる希代の秘宝よ。もう私には無用の物だけど、武昭儀にだけは死んでも渡したくないわ。持っていきなさい。じゃあ、さようなら。」
 玉蘭は皇后の瞳を見つめ、両手を握りしめた。これが最後の別れになるだろうと思うと、過ぎし日の幸せな宮廷生活を思い浮かべて涙がこみ上げ、何も喋ることが出来なかった。金は一生生活するのに困らない量であった。
「本当にお世話になりました。お元気で、さようなら」

 玉蘭は王皇后と別れると、直ちに男を尋ねて、言った。
「馬一頭ご用意いただければよい。牛車はいらないわ。荷物は二個だけで、調度品、着物、装飾品等は全ておいていきます」
 玉蘭は皇后からもらった砂金と秘宝以外は、全ておいていくつもりにしていた。
「荷物をたくさん牛車に積んで、ゆっくり出かける余裕などないの」
「かしこまりました。明朝夜明け、馬を用意して開門と同時に、春明門前でお待ちします」
がっしりとした男が答えた。
タグ:玉蘭
posted by いきがいcc at 19:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 4.女帝則天武后の陰謀

連載(5)

IMG_1935a.jpg  (連載 5)

 彼女は長い髪の毛をバッサリと自ら切り落とし、男装へと変身した。
「やり残したことがあるわ」
 彼女は仲の良い女官の一人に頼んだ。
「武昭儀から緊急の内密の用だといって、小喜をおびき出して欲しい。時間は明朝五時、場所は掖庭宮(えきていきゅう)の裏。太倉(たいそう)の入り口の前、倉庫の前よ、頼むわ」
 武昭儀が権力を増大するにしたがって、小喜の態度も増長し不遜になったため、女官仲間では小喜(しょうき)の評判は悪かった。
「わかったわ。まかせておいて、うまくやるから」
 宮城の中央には皇帝の宮殿があった。政治の中心である「大極宮(たいきょくきゅう)」がそこにあった。東に皇太子の住む「東宮(とうぐう)」があり、西に女官達がすむ後宮「掖庭宮」があった。後宮三千人はここで生活していた。掖庭宮のすぐ裏には、大きな皇帝の穀物倉庫があり「太倉」と呼ばれていた。

 翌朝、小喜(しょうき)は時間通りに来た。
「武昭儀様の用だなんて、だましたわね。あなたになんか用はないわ」
「お待ち。あなたは用がなくても、こっちに用があるの。だました、とはこちらのセリフよ」
「なにさ、偉そうに。こんな朝早くから変だと思った。帰るわよ」
「武昭儀の赤ん坊を殺したなどと、ぬけぬけと真っ赤な嘘をついて、罪もない皇后様を、畏れ多くも陥(おとしい)れてくれたわね」
「言い掛かりはよしてよ。私は何にも知らないわ」
「とぼけないで。私はあの時、赤ん坊の激しい泣き声がしたので戻ったの。あんたが赤ん坊をその手で殺しているところを私は、この目でちゃんと見てるのよ。それでも、あんたは女なの、人間なの」
 玉蘭(ぎょくらん)は実際には見ていなかったが、カマをかけ、詰め寄った。
「だったら、なんなのさ、武昭儀様の命令よ。あんたを八つ裂きにして、殺すのも簡単なことよ。わかってるの。生意気に」
 彼女は白状した。かさに掛かって、本性をあらわし、脅してきた。
「ついに馬脚を現わしたわね」
「だったら、なんなのさ」
「殺したのは替え玉でしょ。赤ん坊が大きすぎる。本当の武昭儀の赤ん坊は何処に隠したのさ」
「そんなことはあんたの知ったことではないでしょう。いい加減にしてよ。武昭儀様に言いつけるわよ」
「小喜、白状しないと刺すわよ」
 と、玉蘭は、懐から取り出した短刀を小喜の胸元にピタリと当てた。刃が夜明けの微光に鈍く光った。
「わかったわ。殺さないで。本当の赤ん坊は宰相が育てているわ」
 さすがの小喜も震えて言った。
「このろくでなし。覚悟して地獄にお行き。許せないわ」
 小喜の犯行であることを確認した上で、玉蘭は短刀をそのまま力まかせに、体ごとぶつけ、小喜の心臓をブスリと突き刺した。
「ギャッ」
 と、一言叫んで小喜は倒れ、ピクピクと体を二三回痙攣(けいれん)させた。ほとんど即死であった。
「本当は武昭儀(ぶしょうぎ)を殺したかったのよ」
 彼女は放心状態ながらも、一人悔(くや)しそうにつぶやいた。
 この時刻、辺りには人影もなく、また元の静寂が戻った。手なずけていた二人の宦官(かんがん)(去勢された男)が闇から現れ、小喜の死体を手際よく片づけた。死体は宦官仲間が闇から闇へと葬った。後宮を取り締まる宦官は、掖庭宮(えきていきゅう)のすぐ隣の内侍省(ないじしょう)に住んでいた。
 返り血を浴びた服を素早く脱ぎ捨て、また男装に変装した玉蘭は、宮城の入口、承天門(しょうてんもん)へと向かった。若葉色の弱柳(じゃくりゅう)(細い柳の枝)が宮殿門の青い窓の縁に数え切れないほど垂れ下がっていた。
 ちょうど朝を告げる太鼓「街鼓(がいこ)」の音がドン、ドンと発し、まるで共鳴したように彼女の胸もドキン、ドキンと高鳴った。時は五更二点(ごこうにてん)(未明)、朝打ち鳴らす太鼓は、まず承天門(しょうてんもん)より始まり、東西、南へと波紋のように受け継いで、鳴り渡っていった。坊、市、城の門は皆開かれ、打てば、夜は明け長安の一日の生活が始まった。
「夜明け。夜明け」
 宮殿では赤い帽子をかぶった鶏人(けいじん)(夜明けを告げる係りの人)が夜明けの時を知らせた。
 玉蘭は滔々(とうとう)と鳴る暁鼓(ぎょうこ)の音を上の空で聞きながら、登城する百宮の官僚達とは逆に、南に向かって伏し目がちに歩いていた。参内(さんだい)する百官の馬のひずめが響き渡り、松明(たいまつ)の光がゆらゆらと玉蘭を照らし出していた。階段を上がる度に、百官の正装の腰に下げた剣(つるぎ)と佩玉(おびだま)がぶつかりあう剣佩(けんばい)の響きがいつになく大きく耳に残った。
「急がなければ」
 気がせいた。皇城を取り抜けて、朱雀門(すざくもん)で東に方向を変え、まっすぐ春明門(しゅんみんもん)へと向かった玉蘭は、恐怖で一度も後ろを振り返ることが出来なかった。長安の都は城壁によって囲まれ、城門も日の出と共に開かれ、日の入りと共に閉じられた。
「さあ、洛陽(らくよう)へ行きましょう」
 男装の麗人(れいじん)が迎えの男に言った。
 朝日に輝く青色の春明門を通りぬけると、城外には春の風に柳じょう(柳の綿のような花)の風花が無数に乱舞していた。その真っ白な綿の華が馬上の玉蘭の短い黒髪と馬の長いたてがみにいくつもまつわりついて離れなかった。二頭の馬は巻き上がる黄塵の中に消え去った。城外の桑の葉が大分緑に色づいていた。太陽が東の空に上がり、長安の一日がまた始まった。

「小喜(しょうき)は何処へいったのか。玉蘭(ぎょくらん)は何処へ」
 突然、二人の美しい女官が神隠しにあったかのように、長安の宮城から姿を消した。誰に聞いても、二人の行方は全く分からず、武昭儀(ぶしょうぎ)は怒り狂った。玉蘭と親しかった二人の女官と三人の宦官が拷問(ごうもん)にかけられ殺されたが二人の消息はわからない。武昭儀にとって小喜は感業寺(かんぎょうじ)以来の間柄で、数少ない最も気の許せる侍女であった。
「皇后様。玉蘭が何処に行ったかはご存じでしょうね」
 知っていても言うはずがないとはわかっていたが、武昭儀は問いつめた。
「妾(わらわ)も驚いています。何処にいってしまったのか、もしわかれば教えて下さい。小喜もいなくなったとは、一緒でしょうか」
 王皇后はよそよそしく言った。
「玉蘭の出身地范陽(はんよう)(北京一帯)へ追っ手を送りなさい」
 武昭儀は直ちに怒り狂って命令した。
「見つけ次第、裸にし車裂(くるまさき)の刑で殺しなさい」
  彼女は国の隅々まで手配書を回し、佞臣(ねいしん)に「見つけ次第、殺せ」と命令したが、まさか、大胆にも足もとの東都・洛陽に潜んでいるとは考えてもいなかった。灯台もと暗しであった。玉蘭は秦懐玉(しんかいぎょく)の家で奴隷として身を隠していた。どこに武昭儀の回し者が居るとは限らないので、本当に奴隷と共に生活していた。彼女が街中に手配書が回っている王氏の侍女であることは秦懐玉以外、誰も知らなかった。
「玉蘭よ。しばらく辛抱して下さい」
「はい。お世話になります」
タグ:長安
posted by いきがいcc at 19:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 5.女帝則天武后の陰謀

連載(6)

gyokuran2.jpg  (連載 6)

 玉蘭が長安を去ってから間もなく、王皇后と簫淑妃(しょうしゅくひ)は廃され、武昭儀が皇后に冊立(さつりつ)された。かっての恋敵二人は共に幽閉された。高宗は憐れみ、時々お忍びで面会に行った。
「天子様、私たちは何も悪いことはしていません。このような暗い汚い牢に押し込めるとは、あまりにもひどいではありませんか。どうか早く助けて下さい」
 二人は涙ながらに訴えた。光りの当たらない、あまりにも汚い牢屋の中の変わり果てた二人の美女の姿を不憫(ふびん)に思い、高宗は約束した。
「これはあまりにも酷(むご)い。寝屋を共にしたお前達ではないか。朕が助けてやろう」
 則天武后はこれを知り、嫉妬に激怒した。飽くなき女の性(さが)の恐ろしさであった。直ちに二人は牢屋から引きずり出され、両手、両足を切断され、大きな酒壺に放り込まれた。
「うわばみ女にふくろう女め。はらわたまで酔わせておやり」
 則天武后が吐き捨てるよに命令した。
「そこまでせんでもよいであろうが」
 と、言う皇帝の言葉などにもはや聞く耳を持っていなかった。
「あの世から化けて出てやるから覚悟おし。はしため女が」
 王氏は観念し黙っていたが、簫淑妃(しょうしゅくひ)は髪の毛を振り乱し、ものすごい形相をしてわめきたてた。その話を耳にした玉蘭は、そのまま居座っていたら巻き添えをくい、皇后と同じ運命をたどったであろうと思うと背筋がゾッとした。それは六五五年(日本・斉明元年)十一月の寒い日の出来事であった。

 さて、唐王朝では高祖の時代から受け継がれてきた「秘色の二碗(ひそくのにわん)」を所有していることが皇帝と皇后の証であった。
「高宗殿。秘色の碗が一つしかありませんが、もう一つはどうなされたのですか。
あなたの分はありますが、私の分がありません」
「余は知らぬぞ」
「うわばみ女の王氏(前皇后)に与えたのですか」
「王氏に与えた覚えなどない」
 と、高宗はとぼけてしらを切った。
 両手、両足を切断し、酒壺に放り込んで虐殺した後、すぐに、前の王皇后の局を片っ端から引っ掻き回して探したが、「皇后の碗」を見つけ出すことはついに出来なかった。

 玉蘭が比羅夫にこの事件のことを話し、自分の身の上をようやく明かしてくれた。それは玉蘭の比羅夫に対する真実の愛が芽生えた時であり、彼女の甲斐甲斐しい助けにより、心身共に病んでいた比羅夫が元気になったのも、ちょうど、そのころであった。玉蘭が小喜を殺し長安の街から姿を消してから八年がすでに経っていた。過去を持つ女は、ようやく過去を語った。そして過去を忘れようとしていた。

 武后が皇后になってからは政治の大権は武后に移り、高宗は傀儡(かいらい)の人となった。人々はこれを「垂簾(すいれん)の政(まつりごと)」と言い、高宗と武后を「二聖(にせい)」とも呼ぶようになった。
「父、太宗の妻は、立派な皇后であったと聞く」
 高宗は自分のふがいなさを棚に上げて、臣下にため息ながらにつぶやいた。
「太宗が政治について、皇后の意見を聞いても何も答えなかった」
「貴殿(あなた)は大唐国の皇帝閣下で聖人君子です。思うとおりに政(まつりごと)をして下さい。了見の狭い女が口を挟むと、ろくなことはありません。外戚(がいせき)(妻側の一族)がはびこることは、政治の乱れの初めです。牝鶏(めんどり)があしたを告げると朝政(ちょうせい)が乱れます」

 長い歴史で女は常に隷属的で、人格が認められることは少なかった。女が名実共に国家権力を握って天下を取り、専制君主として君臨することは、歴史上、極めて例外的でまれなことであった。しかし、なぜか七世紀半ばから八世紀半ば東方の諸国は、女の時代であった。
 胸を大きく露出した衣服をまとい馬に乗る女達は、女性開放の唐を象徴する。彼女達が東洋に素晴らしい文化国家を誕生させ、繁栄を極めさせ、比類なき高度な文化の花を咲かせたのであった。
 当時世界に君臨した大唐国の則天武后(そくてんぶこう)こそ、古今東西を通じて実質的に権力を握った随一の女傑であった。身分の低い一介の女から、自身の色香と才覚で天下の最高権力を手に入れ、自身の国を造ってしまった。高宗の寵愛を一身に受けるため前皇后を陥れ、殺し、皇后の地位を奪って手に入れた。更なる権力を手に入れるため、夫である高宗を廃し、実の子を殺し、自分に逆らう大臣を殺し、最高権力者として大帝国に君臨したのである。
 六六四年(日本 天智三年)からは実質的に、彼女が最高権力者となった。六九0年(日本 持統四年)には唐を廃して彼女の国、「周」を興した。武后が死去する七0五年(日本 慶雲二年)までの約四十年間権力の座にあった。
 年が老いても、妖僧薛懐義(ようそうせつがいぎ)や、美青年の兄弟、張易之(ちょうえきし)と張昌宗(ちょうそうしょう)との愛欲生活を欲しいままにした。偽坊主、薛懐義は白馬寺の僧都(そうず)に収まり、武后は時々白馬寺を訪れ男に密会した。
「今日は白馬寺に詣(もう)でるぞ」
 宮廷内を我が物顔で肩をそびやかし、闊歩している張兄弟を見て、官吏や女官達は「五郎と六郎が行く」と陰でささやいた。
「太宗には三千人の後宮がいた。則天武后に十人の男妾(だんしょう)がいたって何もおかしくはない。宋王朝の山陽公主(さんようこうしゅ)に比べれば知れたものよ」
 と、則天武后の佞臣(ねいしん)達はうそぶいた。
 唐の前の国家は「随」であり、随の前は「南北朝」であった。その宋王朝の五代皇帝に劉子業(りゅうしぎょう)がいた。彼は皇帝になり、他の皇帝と同様何百、何千人の後宮を侍らせていた。それを見て皇帝の姉、山陽公主は弟に言った。
「あなただけそんなにたくさの美女を持つなんて狡いわ。私にも若い、いい男を世話して」
 皇帝は笑ってうなずき、国中から立派な若い美男をたくさん探し出させ、姉の要求を叶えた。姉は三十人の男妾(だんしょう)を侍らし、毎夜男を弄(もてあそ)び、満足した。これに比べれば則天武后の男の数は知れたものであった。

 日本でも西暦六四二年から七七0年の半分以上の期間、七人の女帝によって統治されていた。その時期は日本建国の黎明期であった。以後、今日に至るまで、これほど多くの女帝が政にかかわったことはなかった。

―大化改新を断行し、国家存亡にかかわる朝鮮半島派遣を決定、指揮したのは斉明(さいめい)、皇極(こうぎょく)女帝であった。彼女は二度皇位に就いた―
―おのれの意志で権力を欲して即位した日本最初の女帝は持統(じとう)天皇と言える。彼女が女帝に即位した年は、奇しくも則天武后が即位した歳と同じであった―
―七一0年(日本 和銅三年)平城京遷都の大事業を断行したのは元明女帝(げんめい)であった―
―大型船四隻に五五七名を乗せた過去に類のない大がかりな遣唐使の派遣を決行したのは七一七年(日本 養老元年)、元正(げんしょう)女帝であった―
―七五三年(日本 天平勝宝三年)東大寺大仏の開眼供養を挙行したのは、実質的には孝謙(こうけん)女帝であった。藤原仲麻呂の朝鮮討伐の暴挙をも阻止した。未婚の孝謙天皇が藤原仲麻呂や道鏡(どうきょう)との愛欲に溺れた様は、則天武后と薛懐儀(せつかいぎ)を思い起こさせた―
「持統女帝と孝謙女帝を足すと中国の則天武后に勝るとも劣らずだ」
 と、言われた。女帝達は戦争を嫌い、文化国家を樹立する大事業に貢献した。

 当時、世界的文化国家を東洋に興したのは女の力であった。東方の夜明けは女によって開かれたのである。
タグ:女帝
posted by いきがいcc at 21:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 6.女帝則天武后の陰謀

連載(7)

hirafu-gyokuran.jpg  (連載 7)

       3.比羅夫(ひらふ)と玉蘭(ぎょくらん)


「あなた、洛陽(らくよう)城下に春一番がやって来たわ。何処からやって来たのかしら、我が家にも桃李(とうり)の花が飛んできたわ」
 玉蘭(ぎょくらん)は華やいでいた。泥にまみれた玉蘭は、春の雨と風と光りとそして比羅夫(ひらふ)の愛によって綺麗に洗い流され、もとの玉のような清楚さと輝きと香りを取り戻していた。

 洛陽は温暖な気候、肥沃な土地に恵まれた中国中原の中心地であった。唐では長安と洛陽二つの都が併存して、長い歴史の中にあって、最も栄華を極めたのは、洛陽が「東都(とうと)」と定められた六五七年(日本 斉明三年)から安禄山(あんろくざん)によって戦禍にまみれ陥落する七五五年(日本 天平勝宝七年)までの百年間であった。皇帝達は一年の内、ある期間長安を離れ洛陽に滞在した。人口は百万を超え、政治、経済、文化の都として、長安と共に「神都(しんと)」と言われ繁栄した。
 皇城(こうじょう)の前を洛水(らくすい)が流れ、洛水の北を北城(ほくじょう)、洛水の南を南城(なんじょう)と呼ばれた。北城には二十八坊一市、南城には八十二坊二市があった。一坊(いちぼう)は約五百メートル四方に区画されていた。皇城に近い北城にある北市(きたいち)が洛陽では最も賑わい、業種別にたくさんの店があった。棉や絹を売る綵棉行(さいはくこう)、糸を売る絲行(しこう)、香料を売る香行(こうこう)、宝石を売る玉石行(ぎょくせきこう)等が軒を並べ、香行ではウズベキスタン人やサマルカンド人等の西域人が商いをしていた。
「あなた、西域の魅惑的な香料や妖しく光る宝石がたくさん並んでいますよ。長安の西市にまけていないわ」
 道幅は百五十メートルあった。都大路の槐(えんじゅ)の大木が若葉で萌えていた。ところどころに李(すもも)の白い花が咲いていた。洛水の辺りには柳が両岸を覆っていた。この辺りが人の往来が最も多く、賑やかな街並みであった。
「比羅夫、あれが崇山(すうざん)で大室山(おおむろやま)と小室山(こむろやま)ですよ。頂きが春霞に青く聳(そび)えているわ」
 遙か南を眺めながら玉蘭が言った。
 その山深い西麓に少林寺(しょうりんじ)がある。この寺は禅宗発祥の地で少林寺拳法と達磨大師(だるまたいし)で有名であった。振り返って北を仰げば洛陽のすぐ後ろに亡山(ぼうざん)の台地が、東西に延々と二百キロ連なっていた。北側は黄河に面し、黄河の流れにより浸食され断崖を形成していた。一方、南側は常に陽光が降り注ぐなだらかな斜面で、後漢以来王侯貴族の墳墓(ふんぼ)の地となっていた。無数の名もなき古の墳墓は、今も洛陽の街を見下ろしていた。

 比羅夫は洛陽に来て、三度目の春を迎えていた。春風は李(すもも)の花と柳の芽を従えて、中国大地を南から北へと揚子江を越え、黄河を越えて渡っていった。玉蘭と連れだって洛水の岸辺を西に向かって歩き、銅駝坊(どうらぼう)の前の浮き橋を通り洛水の南岸に出た。
「玉蘭、春うららかなよい日和(ひより)だな」
「あなた、ご覧なさい。陽春の洛水は緑に輝き、春風に柳の綿花(わたはな)が舞っていますわ」
「おお、春の雪だな」
 浮き橋を渡る時、玉蘭はいつも比羅夫の腕を強く掴んでいた。それは片足の松葉杖の比羅夫を助けているようでもあり、男のがっしりした腕にしがみつき助けてもらっているようでもあった。歩く度に、浮き橋の二人の影が川面に上下に揺れた。
「あなた、大丈夫ですか。足もとに気を付けて下さい」
「ああ、大丈夫だ」
 河幅は百メートル余りもあり、数百艘以上のたくさんの舟を横に並べ、鉄の鎖でつなぎ舟の上に板を渡した舟の浮き橋であった。
 南岸にそって更に西に進むと、浮き橋と天津橋の間にもう一つ中橋があった。
 その中橋を通り過ぎる辺りから堤防が築かれていた。堤(どて)の外側は大きな池になっていた。魏王池(ぎおうち)と呼ばれ、湖岸には柳が、湖面には蓮が生えていた。夏になると真紅の花が咲き乱れ、時には夕方、気ままな荷風(かふう)(蓮の花の香り)がその香りを、二人の小さな家まで運んでくれた。
 二人は堤で一休みした。
「あの河岸の砂浜まで行きましょう」
 玉蘭は柳の一枝を折り、比羅夫に言った。
「これは私の好きな詩の一つです。最近、沈全期(ちんぜんき)が詠(うた)った七言絶句(しちごんぜっく)ですよ」
 と、言って柳の枝で、砂浜に大きな字で詩を書いた。玉蘭は詩を愛し、多くの詩を比羅夫に歌って聞かせた。
 漢の「賦(ぶ)」、唐の「詩」、宋の「詞(じ)」、元の「曲(きょく)」と言われるごとく、唐は「詩」の時代であった。唐の詩人は二千人がおり、四万八千九百首が歌われた。長安、洛陽は誇り高い、当時代世界一の文化の帝都であった。玉蘭は高級女官として詩の教養が高かった。



             亡山(ぼうざん)  
  
 北亡(ほくぼう)山上(さんじょう) 墳栄(ふんえい)列(つらなり)
―北亡山の頂きにはたくさんの墓が累々とつらなっている―
 万古(ばんこ)千秋(せんしゅう) 洛城(らくじょう)に対(たい)す
―千年も万年も古から変わることなく洛陽の街を見下ろしている―
 城中(じょうちゅう)日夕(にっせき) 歌鐘(かしょう) 起(お)こるも
―華やかな街では日暮れと共に歌声や楽器の音が聞こえてくる―
 山上(さんじょう)ただ聞く 松柏(しょうはく)の声 
―山上では夜風に鳴る松、柏の音だけが響き渡るばかりである― 

  
 砂上の詩(うた)は春風にサラサラと掻(か)き消されてしまった。暮れなずむ天津橋の赤い欄干が夕日に輝き、柳にけむる居酒屋の青い酒旗(しゅき)(のれん)が夕風にはためいていた。やがて、太陽が沈み、神都(しんと)(洛陽)の北に連なる亡山が暗闇にかき消された。

 比羅夫は、ふと遠い奈良の香具山(かぐやま)や飛鳥川(あすかがわ)を思い出した。故郷の山、故郷の川、故郷の人、少年の日々の思い出がまぶたに浮かんだ。昔、母親が話して聞かせてくれた童話の世界にいるように思えた。

 比羅夫にとって、玉蘭と洛陽の街をゆっくりと散歩するのが、何よりも楽しい一時であった。玉蘭が比羅夫の子を身ごもったとうち明けたのは、二人が出逢ってから三年目のことであった。
「あなた、赤ん坊が出来たみたいだわ」
「そうか」
 彼は愛する玉蘭との間に子が授かったことを心から喜んだ。
「故国に帰る時は、親子三人で帰ることになるのだろうか。日本に一緒に行ってくれと言ったら、玉蘭は行ってくれるだろうか」
 と、比羅夫は玉蘭に聞こえない小さい声で尋ねた。
 老いと足の疼(うずき)きを感じるようになってきた比羅夫は思っていた。自分が果たして故国の地を再び踏むことが出来るのであろうか。大海の荒波を越えて、無事日本にたどり着くことが出来るのだろうか。彼は不安になっていた。
 玉蘭はこの美しい洛陽の街で、親子三人いつまでも一緒に暮らしたいと、きっと願っていることであろう。比羅夫自身もそう願う気持ちがある。戦争のこと、部下のこと、日本のことを忘れてしまいそうな幸せの日々であった。
「あなた、あなた、どうしたの」
 と、玉蘭が彼の大きな肩に手を掛けて呼んでいるのに気が付き我に返った。周りはすっかり闇に包まれ、天津橋の絵灯籠(えとうろう)の灯が洛水の波間にゆらゆらと輝いていた。貴公子達、女官達、町人達の行き交う声と音だけが橋の上から、二人のところまで伝わってきた。
「やあ、玉蘭そろそろ帰ろうか。お前は滋養(じよう)をつけなければいけない。今夜の夕餉(ゆうげ)は何が食べたい。祝いに俺が料理しよう」
 浮き橋を通り北市により、夕餉の材料の買い物をして、二人は家路についた。
 比羅夫が玉蘭のため腕を振るって料理を作った。玉蘭は比羅夫の背中をじっと見つめてつぶやいた。
「奴隷になったお陰で、女の本当の幸せを掴んだわ」
「遅くなってすまん。今夜は若い野鴨(のがも)の蒸し焼き、取り立ての舞濾公(ぶろこう)の肴(さかな)、旬(しゅん)のたけのこ、鶏のスープだ。そして、お前のために栄養たっぷりの牛蘇(ぎゅうそ)(ヨーグルト)も買ってきた。腹が減っただろう。さあ食べよう」
 遅い夕餉はこの上もなくうまかった。久しぶりに二人は西域の葡萄酒に酔いしれた。
タグ:洛陽
posted by いきがいcc at 21:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 7.比羅夫と玉蘭

2011年11月09日

連載(8)

rensai8.jpg  (連載 8)

「玉蘭、子供は男でも女でもよいぞ」
「ありがとう」
 生まれた子は男であった。本心は男を強く望んでいた比羅夫は喜んだ。
自分が唐で学んだことを日本に持って帰ることが難しいと考えるようになっていた比羅夫は、自分の息子におのれの意思を託したいと考えていた。
「瞳が清らかだなあ。玉蘭」
 比羅夫はうれしそうに言った。
「人間は皆、生まれる時、神の子であり、そして死ぬ時、神の子に還るのだ」
 と、彼は赤ん坊を見つめながら、独り言をつぶやいた。
「人間は皆、何も持たずに生まれてくる、そして何も持たずに死んでいくのよ」
 と、玉蘭が相づちを打ちながら答えた。
 しかしながら、子供が産まれて一年経ったころ、両親は赤ん坊が生まれながらの聾唖者(ろうあしゃ)であることに気が付いた。
「このようなことになるとは、本当にすみません」
 心の強い玉蘭が涙ながらに比羅夫に謝った。幸せの絶頂から不幸のどん底に落とされた。罪のない赤ん坊の将来を考えると、気性の強い玉蘭でも悲しみがこみ上げて、どうしようもなく涙を抑えることが出来なかった。
「謝ることはない。神が与えてくれた定めだよ。耳が聞こえず、口が喋れずとも、あの綺麗な瞳を持っているではないか」
 比羅夫は玉蘭を慰め、自分にも言い聞かせた。玉蘭は黙ってうなずいた。親子三人の愛の深さは、子供が聾唖者であることを忘れさせてしまった。また、幸せな生活の日々が始まった。
「ただ耳が聞こえず、喋れないだけじゃないか。明るく元気だ」
子には庭の美しい一本の楓の木にちなんで、楓麻呂(かえでまろ)と名付けていた。
「楓麻呂か、いい名前だ」

 日も短くなった晩秋のころであった。
「二、三日前からうさん臭い男達が家の周りをうろうろしているが、知っているか」
「いいえ、ちっとも知りませんでした」
「皆ならず者だが、腕の立ちそうなやつは一人もいない。俺がついているので何も心配することはない。まさか、二十年も前のお前の素性を知っているとは思わないが」
「そういえば近頃、則天武后(さくてんぶこう)が数百人の隠密を雇い、少しでも逆らったり、謀反を起こしそうな者があれば、片っ端から密告するように命令しているらしいですよ。恐ろしいわね」
「武后は権力の座を手に入れ、それを維持するため今まで何百人の人を虐殺してきたらしいな」
 武后は常に人を信じず、猜疑心(さいぎしん)が強く、不安におびえていた。取り締まりは益々厳しくなった。無頼(ぶらい)の輩(やから)による密告が横行し、恐怖政治が始まった。無実の罪で多くの人が拷問にかけられ虐殺された。
 二人の家の周りをうろついていたのは、来俊臣(らいしゅんしん)の配下の者であった。来俊臣はもと賭博(とばく)のやくざであったが、謀反者取締の親玉として則天武后の信任を得、手先となって働いていた。彼は武后から反逆者の一覧を貰っていた。そこには反逆者名が重要度別に明記されていた。
「大物を捕まえれば、昇進も早く、恩賞も高いぞ」
 来俊臣が仲間に言った。玉蘭の名前は執念深くまだ最重要の反逆者リストに乗っていた。
 比羅夫は数日間、彼らの行動を観察し、人数は三人であることを確かめた。彼らのたまり場である酒場も突き止めた。松葉杖で歩く片足の彼は、目立つので尾行することは難しかったが、酒場の片隅で酒を飲みながら彼らの様子を観察することは出来た。
「温洛坊(おんらくぼう)の小さな一軒家にいる一家は何ものだ。怪しいぞ」
 と、背の低い小太りの男が言った。
 比羅夫はドキリとした。
「男は片足だな。女と子供もいるぞ。男も女も過去を誰も知らず怪しい」
 背の高い碧眼(へきがん)の赤ら顔の胡人(こじん)が言った。
「辺りの者に探りを入れてみたが、誰も知らない。何をしているのかよくわからぬ。男はよそ者だ。どうだ一度しょっ引いて、泥を吐かせようか。以外と大物をしとめることになるかもわからんぞ」
「今夜はやけに冷えるな。クーニャン、酒だ、酒がないぞ。おい、早く酒を持ってこい」
 と、目の鋭いひげ面で一番年長の頭風(かしらふう)の男が言った。役人風を吹かせ、酒代を一度たりとも払ったことのない無頼漢達であった。
「よし、上元節(じょうげんせつ)(一月中旬の節句)が終わり次第、踏み込むことにしよう。ことによったら大物で、恩賞がしこたま入るかも知れないぞ」
 比羅夫と玉蘭は過去のある身である。過去を暴かれて密告でもされたら一貫の終わりだ。比羅夫は考えた。
「危機一発だったな。先手必勝だ、三人まとめて闇から闇へ葬るよりしょうがないな」
 
 唐代は治安維持のため、日暮れと共に城門は閉められる。城内の坊門(ぼうもん)、市門(いちもん)も閉められる。これを「夜行の禁(やこうのきん)」と、言って夜の外出、通行は禁止されていた。日の出と共に太鼓が打ち鳴らされて全ての門が開かれ、日没と共にまた全ての門が閉じられる。この太鼓の合図は「暁鼓(ぎょうこ)」、「暮鼓(ぼこ)」と呼ばれていた。毎日、日暮れには八百回太鼓を打って門を閉じ、夜明けには三千回太鼓を打ち門を開けた。『新唐書(しんとうしょ)』にその様子が書かれている。

―日暮るれば、鼓(こ)八百声にして門閉(もんと)づ… 五更二点(ごこうにてん)(未明)鼓(こ)、内(うち)(宮城の承天門)より発(おこ)り、諸々(しょしょ)のがいこ街鼓、承(う)けて振るえば、坊・市の門は皆な啓(ひら)く。鼓三千打てば、色べん弁じて(明るくなって物が識別できる)止む―

 この法を破ると「犯夜(はんや)」と呼ばれ鞭打ちの刑に処せられた。この夜行の禁が解かれるのは一年に一度、正月十五、十六、十七日の上元節(じょうげんせつ)の時だけである。上元節には街中に灯籠(とうろう)が飾り付けられ、人々は飲み明かし、踊り明かした。男女が肌を触れ合い解放される、一年で唯一の日を、皆、楽しみにしていた。
「上元節しか、ないな」
闇から闇に葬るには、この祭りの時機を逸してはならないと、比羅夫は決断した。
 上元節最後の夜も大分更けてきた。三人のごろつきは相変わらず、行きつけの酒場で飲んだくれていた。祭りが三日三晩続き、正月以来の遊び疲れでさすがに疲労の色を滲ませていた。
 比羅夫と酒場の主は打ち合わせ済みであった。
「お役人様。今夜はお祭りの最後の晩です。もう一本おつけしますよ。どんどんやって下さいまし」
主人は三人にしこたま飲ませた。
「おお、よう飲んだ。おやじ今晩はえらい気前がいいじゃねえか。どういう風の吹きまわしだ」
「はい、お祭りですから。それから酔いざましに舟を用意していますので、最後の灯籠見物はどうですか」
「気が利くな。おい、舟で灯籠見物もいいじゃねえか」
 髭面の頭風の男が立ち上がって仲間に言った。三人ともかなり酩酊して足がふらついていた。
 このあたりは洛陽一の賑やかな船着場で港に出入りする商人達で賑わう繁華街であった。胡人の酒場の高く掲げた酒旗(のれん)が風にはためき、胡楽(こがく)の調べが夕闇迫る水辺に流れていた。多くの小さな運河が入り組んでおり、洛水につながっていた。
 三人のごろつきのたまり場であった酒場は、帰義坊(きぎぼう)の一角にあり、裏からすぐ舟に乗ることが出来た。三人のため一隻の舟が用意されており、船頭が一人舵を持って待っていた。船頭は洛水へと漕ぎ出し、黙って、三人の前に酒とさかな肴を出した。
「おい、船頭、方向が違うぞ、反対だ、天津橋の方に行け。こっちは灯籠が少ないんだ」
 しかし、船頭はそれを無視して川下の方へと、どんどん進んでいった。
「おい、聞こえねのか。反対だ」
「罪のない人間を陥れ、悪事の数々を働くお前らを葬るには暗闇がおあつらえむきだ」
 船頭は船底にへばりつくようにかがんだまま、うそぶいた。大きな黒蜘蛛が船底にへばりついているようなその姿には、一分の隙もなかった。すご腕の元大将はひもを結わえ付けて舟から河に流していた松葉杖を、音もなく手元にスルスルとたぐり寄せて、身構えた。
「てめえは誰だ」
「温洛坊の住人よ」
「なんだと、このやろう」
 と、三人は舟の中で立ち上がったが、足もとはふらつき、よろけていた。船頭は素早く松葉杖を握って思い切り反動をつけ、左右から水平に拍子木(ひょうしぎ)を叩くように振り回した。舟が大きく揺れた。
 ギャフン。グシャ。
外側の二人の男は足のすねを折られた。踊りかかってきた真ん中の男を櫂(かい)の先で、素速く突き返した。三人がひるんだ次の瞬間、スックと立ち上がり、松葉杖を大上段に振りかざし、頭上から垂直に力まかせに振り下ろした。
エイッ。
二人の頭蓋骨が割れた。櫂の棒で突かれてひっくり返っている男も二振り目の松葉杖で撲殺した。無頼の輩は比羅夫の敵ではなかった。比羅夫は三人の遺体を洛水に放り込んだ。
 ドボン、ドボン、ドボン。
 宵闇(よいやみ)せまる静かな洛水に、三回音がした後、もとの静寂に戻った。水面を通り抜ける夜風がやけに冷たかった。
 灯籠で飾り付けられた天津橋が闇夜に浮かび上がり、天津橋の後ろの高台には上陽宮(じょうようきゅう)が聳えていた。上陽宮は高宗によって建てられた真っ赤な離宮で、その高さ百五十尺(五十メートル)を超える新築の高殿(たかどの)は無数の色とりどりの灯火(とうか)と珠玉(しゅぎょく)によって飾り付けられ、燈楼が浮き上がって見えた。
 美しい装束をまとった貴公子や若い女官たちが手をつなぎ、足を踏みならし、歌を歌い三日三晩熱狂した。その「踏歌(とうか)」の宴もすでに終わっていた。
 宮城の含元殿(がんげんでん)には、火樹(かじゅ)をくわえた青龍(せいりゅう)と蓮花(れんか)を踏む鳳凰(ほうおう)が夜空に描かれていた。
   
龍は火樹(かじゅ)をふくむ千燈(せんとう)の焔(ほのお)
鶏(とり)は蓮花(れんか)を踏む万歳(ばんさい)の春

 この時ばかりは、金吾衛(きんごえ)(警備の門番)の兵士達も、城門を開いて警備を解き、酒を飲んで灯籠見物に興じていた。
 上元節の後、比羅夫と玉蘭の家の周りをごろつきがうろつくことはなくなった。
posted by いきがいcc at 19:50| Comment(2) | TrackBack(0) | 8.比羅夫と玉蘭

2011年11月10日

連載(9)

kaedemaro.jpg  (連載 9)

         4.僧白遊(そうはくゆう)の悲劇


「玉蘭(ぎょくらん)、明日は久しぶりに三人で遠出しよう」
 と、比羅夫が言ったのは、子供が七歳になったある秋の日であった。
 次の日の夜明けと共に親子三人は、牛車にのって洛陽(らくよう)の都大路を南へ向かった。南市を通り過ぎるあたりで、拝火教(はいかきょう)(ゾロアスター教)・波斯胡寺(はしこじ)の鐘の音が聞こえてきた。
 カラーンコローン、カラーンコローン。
 季節はちょうど中秋のころ、群青の空は深く、長夏門(ちょうかもん)から城外に出て真っ直ぐ南に進む三人の肌を、正面に聳える五岳(ござん)から吹き寄せる秋風が心地よくなでた。松の緑の林の中に、所々、柿の木が紅葉しており、赤い実がなっていた。赤、黄が鮮やかに目に入り、目から消えていった。牛車の後ろに舞い上がる紅塵(こうじん)は、松の林に吸い込まれて、跡形もなく消えていった。
 龍門(りゅうもん)の石窟は、洛陽の街から十三キロ程南下したところにあった。視界がグンと開け明るくなった。伊水(いすい)が北に流れ、両岸には香山(こうざん)と竜門山(りゅうもんざん)が対峙している。両岸の岩壁約一キロに龍門石窟(りゅうもんせっくつ)が広がっていた。西暦五00年北魏(ほくぎ)の時代から岸壁に彫られていた仏像は皇族、貴族、官僚、商人、農民全ての人間が、それぞれ祈りと願いをこめて、極楽浄土を夢見、銘文を刻み、自ら槌を振るい、大小無数の仏を次々と彫ってきたのである。
 つい最近、六七五年(日本 天武四年)竜門山のほぼ中央の岸壁に岩をうがって、高さ十七メートル以上もある大仏を完成させたことを比羅夫は知っていた。漂う気品、神々しい姿、胸の衣の襞(ひだ)は、未来永劫に流れているようで、当時の中国仏教芸術の最高峰を極めたものであった。寄進した罪深い女帝、時の権力者則天武后は仏教の強い信奉者であった。
 ちなみに、それから七十数年後、奈良の大仏の開眼供養(かいがんくよう)がおこなわれるが、その大仏は、まさにこの奉先寺(ほうせんじ)の大仏を模範とした、と言われている。
 比羅夫は、白く輝く、荘厳で、慈悲に満ちた盧舎那仏(るしゃなぶつ)の姿に心洗われる思いであった。ここにやってきたのは、彼にとっては二度目であった。
「玉蘭、盧舎那仏の眼差しをご覧」
 玉蘭は楓麻呂(かえでまろ)の手を握りしめながら、その顔を仰ぎ見、それから急に気づいて子供の瞳を見た。
「ああ、似ている。一重のあの切れ長な大きな目。畏(おそ)れ多いことです」
「そうだろう。やはり瞳が同じだ」
 と、比羅夫は半ばぼう然としてつぶやいた。
「玉蘭、大仏様は聞こえない、喋れない、その上、動くことも出来ない」
 玉蘭はただうなずくだけであった。
 親子三人は手をつなぎ盧舎那仏(るしゃなぶつ)を黙って、いつまでも仰ぎ見ていた。
 秋の太陽の光りが薄茶色の石窟群を照らし、伊水(いすい)に映えていた。時間と共に、盧舎那仏は光りの陰影に生きていた。薄暮(はくぼ)の中、仏像はある時は微笑み、ある時は憂い、ある時は慈(いつく)しんでいた。そして、闇の中に消えてしまった。いつの間にか十三夜の月が輝いていた。

 楓麻呂(かえでまろ)は丈夫に成長していった。喋ること、聞くことが出来なかったためか、小さいときから書物を読むことが好きで、字が上手な聡明な子供であった。
「父さん、釈迦(しゃか)とキリストと孔子の三人の中で、最初に生まれたのは誰ですか」
「誰かなあ、お釈迦さんかな。そうだ、お母さんが知っているかもわからない。お母さんは結構物知りだから」
 母親は教えてくれた。
「仏教を開いた釈迦は、天竺(てんじく)(今はネパール)で紀元前五六三年に生まれ、四八三年に入滅(にゅうめつ)したのよ。彼はシャカ族の王子様だったけど、長年の修行の末、真理(ブッダ)に目覚めた。苦行でもなく、快楽でもなく、あるがままに生き、現世は無常であることを悟った。人は欲を捨てて、悟りを開くことで誰もが平等に救われると説いたのよ」
「欲を捨てて、あるがままに生きるのですか。おかあさん」
「ええ、難しいことよね。釈迦が生まれたのは、今から千二百年以上も前のことよ。キリストが処刑されたのは、紀元後三十年と言われているから、釈迦より五百年も後に生まれたことになるわ」
「孔子が生まれたのはいつ頃か知っていますか」
「儒教の創始者、孔子が魯(ろ)の国(中国山東省)に生まれたのは、紀元前五五二年で、そして、紀元前四七九年没したのよ」
「お父さん、釈迦と孔子は、ちょうど、同じ時代に生きていたんだね。釈迦は孔子の十一歳だけ年上で、亡くなったのも四年違うだけだ。もしかしたら、二人は友達だったかも知れないね。吐蕃(とはん)(チベット)の山あたりで逢っていたのか」
「いや泰山(たいざん)(山東省の名山)かもしれないぞ。そして二人は語りあったかもわからない。孔子曰く,『おお、祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の王子。朋(とも)、遠方より来たるあり、また楽しからずや(遠く離れたところに住んでいる朋が思いがけず訪ねて来てくれたか。こんなにうれしく、楽しいことはない)』と、釈迦曰く、『おお、東方の聖人。朋よ、汝は煩悩(ぼんのう)の炎を如何に消すことができますか。教えて下さい』と」
 楓麻呂はすでに書物を読んでおり、仏教、儒教に深い興味を持っていた。釈迦と孔子の生きていた頃の日本は有史以前の縄文時代であった。
「ついでに教えておくわ、最近、長安にも増えてきた、西域の人達が信仰しているイスラム教の創始者マホメットは、最近の人ですよ」
「お母さん知っているよ。マホメットと三蔵法師(玄奘(げんじょう))は、友達でこうこく康国(サマルカンド)の地で逢ったことがあるのだ」
「お前も勉強して、偉い人になって下さいね」
 親子三人は筆談した。

 比羅夫がこの世を去ったのは、洛陽に捕虜として連れてこられてから、二十七年後のことであった。息子の楓麻呂は十九歳になっていた。息子は三年前より、中国最古の仏教寺院・白馬寺で修行を始めていた。
 楓麻呂は最近ではすでに「寡黙僧(かもくそう)」と呼ばれ、洛陽の巷でも噂になっていた。楓麻呂は得度(とくど)し、僧「白遊(はくゆう)」と名乗った。白馬寺の青年僧、白遊は若くしてその天才ぶりが認められつつあった。
 やがて、父は臨終の床に就くこととなり、息子に語った。母親は筆談で息子に伝えた。
「二十歳になったら、お母さんと一緒に、日本へ行ってほしい。奈良にお父さんの一族が暮らしている。阿倍宿奈麻呂(あべのすくなまろ)を訪ねて行きなさい。宿奈麻呂はお前の兄さんだ。兄さんがいなければ、阿倍一族の誰でもよいから比羅夫の息子だと名乗りなさい。新しい日本の国造りのためにつくすのだ」
「はい」
 しばらく間をおいて言った。
「お母さんに預けてある羊の革袋を持って行きなさい。我が一族の家系図にも、お前達の名前を、ちゃんと書き込んである。白馬寺でこれから更に研鑽を積み、学んだことを日本に持って帰り、唐を見習い、日本を立派な国にしなさい」
「わかりました。お父さん」
「日本に行くにはお金がかかる。私の松葉杖の中には砂金が詰まっている。日本に行く路銀にしなさい。一本はお母さん、もう一本はお前の分だ」
 そして、比羅夫はポツリと言った。
「松葉杖はもういらない」
「玉蘭、世話になったな。捕虜になったお陰で、こんな幸せを掴んだ。本当にありがとう」
「私も、あなたと巡り会い幸せを掴みました。ありがとう」
 玉蘭は愛する男の涙を初めて見た。
「男の涙ほど、美しい物はないわ」
 心の中でつぶやきながら自分も涙した。比羅夫は、死んでも玉蘭の手をしっかり握ったまま離さなかった。比羅夫の涙は肩から腕を流れ、玉蘭の手に流れつたわって止まった。
 
 僧白遊(そうはくゆう)は、白馬寺で新羅からやってきた青年僧と友達になった。新羅の僧は名前を無一(むいち)」と名乗り、彼より三歳ほど年上であった。高句麗(こうくり)は唐と新羅の連合軍に負けて、すでに滅亡していた。彼の一家は、旧高句麗王の一族であったが、国が滅んだため遼東(りょうとう)半島に逃げて来ていた。

 誰が言うとはなしに「白馬寺の寡黙僧」と呼ばれ、洛陽の巷では若き高僧として人々に敬われるようになっていた白遊は、白馬寺の境内の石畳に敷いた大きな巻紙に、筆で教典と仏画をサラサラ書いて仏の道を民衆に教えていた。
「黙して語らず、その座す姿、その眼差しは、まさに弥勒菩薩(みろくぼさつ)の再来だ」 
 と、洛陽の民衆は噂(うわさ)した。
 彼が父親の遺言に従って、日本へ行くことを決意したのは、二十三歳の時であった。友人であり年上ながら彼を尊敬していた新羅の僧無一は、共に日本に行くことを強く望んだ。
「白遊殿。私も君と共に日本(やまと)に行きたい」
「それは心強い。二人で日本に行こう」
 玉蘭はすでに夫がいなくなった唐に強い未練はなかった。ましてや、息子と別れて一人洛陽で生活する気はまったくなかった。

「あの大きな妖僧(ようそう)は誰ですか。最近、得体の知れぬ僧を多く見かけるが」
 青年僧、白遊が眉をくもらせて僧無一に訪ねた。
「あれが噂の薛懐義(せつかいぎ)で則天武后の男妾(だんしょう)ですよ。白馬寺の住職になるそうで、由緒ある白馬寺もおしまいですね」
 則天武后は、皇室に出入りしていた妖しげな薬屋の大男に夢中になり、自分の男とした。世間の手前もあり、彼を白馬寺の僧として、宮廷に出入りさせたのである。
「日本に行こう」
 楓麻呂は決心した。
posted by いきがいcc at 12:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 9.僧白遊の悲劇

2011年11月11日

連載(10)

nanpasen.jpg  (連載10)

 白村江(はくすきのえ)の大戦以来敵国であった唐、新羅と日本の関係は、いまだ悪く完全に修復されていなかった。
「戦後、遣唐使が派遣されるとの話は、いっこうに伝わってこないな」
 と、僧白遊は僧無一に言った。
 事実、実質的に遣唐使の派遣が再開されたのは、四十年後の七0二年(日本 大宝二年)のことであった。しかも、新羅との関係は、唐との関係以上に悪く、国交断絶に近い状況下にあった。
 古代、日本から中国への航路は、先ず筑紫(つくし)(博多)から壱岐(いき),対馬(つしま)を経て朝鮮半島南端に出た。その半島の西海岸沿いに北上し、中国遼東(りょうとう)半島の東海岸沿いに進み、渤海海峡を真っ直ぐ南下し、登州(としゅう)(山東半島)に上陸する道であった。陸伝いのこの「北路」が時間はかかるが、中国への最も安全な第一の航路であった。
 ところが、新羅との国交が悪化し、白村江の戦いの敗北で、日本は朝鮮の統治権を失い、北路は通過が難しくなった。大宝(たいほう)の遣唐使からは、九州の五島列島から直接、中国大陸揚子江河口辺りを目指して、大海を一気に西に横断する「南路」を取るようになった。当時にしてみると、大海を小舟で横断することは、極めて、危険なことであった。
白遊と無一は語り合った。
「日本に行くのには何日かかるのか」
「海流や風に恵まれれば、五日から七日で到着出来る」
「しかし、嵐で難破したり、時には遠く海南島やベトナムまで漂流することも、けっして、少ないことではないと言うではないか」
 事実、遣唐使は全部で、二十一回派遣されたが、無事全船が帰国できたのは、たったの、二回だったと言われている。それでも、日本国は先進国唐に学ぶことにどんよく貪欲であった。
 危険をも顧みず、遣唐使で中国に渡った日本人は、六千人以上いた。そしてその内、何人が無事故国の土を踏めたのであろうか。生きていたら歴史に名を残したであろう優秀な多くの人々が大海に命を落としたのだ。 
 白遊は父の遺言でもあり、より早く日本にいく方法を真剣に模索した。
「これ以上、無為に過ごす訳にはいかない。無一殿、何とか日本にいく手だてはないものですか」
 彼は焦りだした。
「白遊殿。新羅の海の民を使えば、日本に行けると思うが、何処まで、信頼出来るかわからない。やつらは何時、海賊に変身するかわからないからな」
 この時代になると、早くも朝鮮半島西南の海岸には、「海の民」が出現していた。民間の新羅船が渤海、黄海、朝鮮海峡を行き交うようになった。唐、新羅、日本が交易を始めていた。彼らは新羅人を中心とする三国の混成部隊であった。
 中国山東半島の港登州(蓬莱市)には、白村江の敗戦により唐に連れてこられた日本人捕虜が逃走し、本国への帰国を望み、各地から集まってきていた。新羅の貿易商人も舟に乗って、現れるようになった。そして、この辺りは海の民の本拠地であった。
「何時来るかわからない遣唐使を待っている訳にはいかない」
 と、僧白遊はきっぱりと言った。
 白遊と母親の玉蘭と朋友僧無一、三人は、「女は乗せないが、船賃を五割り増しで払えば考えてもいい」
 と言う船頭が率いる、海の民の新羅船に乗り込み、日本へと向かった。

 数ヵ月後、僧無一は白遊とその母の非業の死を悲しみつつ、奈良に到着することとなった。
「白遊の遺品を飛鳥の阿倍家に届けよう」
 二人に依頼された約束を守るために、新羅の青年僧無一が日本奈良の阿倍宿奈麻呂(すくなまろ)を訪れたのは、七0一年(日本 大宝元年)のことであった。比羅夫の長子である宿奈麻呂は、四十一才であった。息子は父親とは異なり、武人ではなく学者としての道を歩んでいた。同時代の数学の第一人者であった。
「阿倍宿奈麻呂(あべのすくなまろ)殿にお取り次ぎ願いたい。我は宿奈麻呂殿の弟君、阿倍楓麻呂殿の友人で、高句麗の僧無一(むいち)と申す者です」
 と、新羅の青年僧は高句麗の僧と名乗った。
「宿奈麻呂殿の弟君、楓麻呂の友人とな・・・。宿奈麻呂殿には、楓麻呂という弟君は、おりませんが」
 と、取り次ぎの老人が、怪訝な顔をして言った。
「先の、白村江大戦の日本の大将阿倍引田臣比羅夫(あべのひけたのおみひらふ)殿、戦後唐において、玉蘭(ぎょくらん)様と結ばれ二人の間に生まれた子が、楓麻呂殿と聞いております」
「なんと、して比羅夫殿はご無事か、楓麻呂とやらは今どこにおいでかの」
 身内ではないかと思われる先ほどの男が、身を乗り出して早口で尋ねた。
「ここで、お話し申し上げれば長うなります。宿奈麻呂殿にお目通りさせていただいた後、お話しさせていただければありがたいのですが」
「わかり申した。ではしばらく、お待ち下され」
 と、言って男はそそくさと姿を消し、やがて二人の男が姿を現した。
「私が阿倍宿奈麻呂です。弟のご友人とのこと、是非お話を承りたい。どうぞ奥へお入り下され。ああ、それからこちらは父比羅夫の弟君で、阿倍船守殿(あべのふなもり)です」
 その男もついてきた。座るのももどかし気に新羅の僧無一は話し始めた。
「大戦後、比羅夫殿は白村江で捕虜として囚われ、登州(蓬莱市)に上陸し、洛陽に連れてこられました。時の宰相、狄仁傑(てきじんけつ)のはからいで、何不自由なく暮らしていましたが、十年前、お亡くなりになりました。比羅夫殿は高宗皇帝の前皇后王氏の侍女玉蘭様と結ばれました。二人の間に生まれたのが楓麻呂殿です」
「そうですか、なんと、兄貴は十年前まで唐にて、ご存命であられたのか。白村江の戦いで戦死したとばかり思っていた」
 と、船守が口を挟んだ。
「唐で結婚し子供までいたとは。玉蘭さんとはどんなお方か無一様はご存知ですか」
 いつの間にか話に加わっていた比羅夫の年老いた妻が尋ねた。
「それはそれはお美しい方でした」
 と、無一は言った。
「楓麻呂殿は『二十歳を過ぎたら唐国で学んだことを日本に持って帰り、日本建国のため尽力せよ』との父親の遺言に従い、この度、親子二人と私と新羅の商船に乗り、日本国を目指したのでございます」
 新羅僧は次の言葉が、なかなか出てこなかった。しばらくの沈黙が続いた。
「して、どうされた」
 と、宿奈麻呂(すくなまろ)は覚悟を決めてうながした。
「眈羅(たんら)(済州島)から五島列島への、日本への最後の航路で嵐に遭った船は舵を失い、暴風雨にまかせて漂流しました。多くの人が死んでいったのです。楓麻呂は甲板に端座し、船の無事を祈願して昼夜読経したのですが、ある深夜、突風に吹き飛ばされ、暗黒の嵐の空に舞い上がり、白い法衣も黒い天空にかき消されたのです。母親の玉蘭は、息子が天空に消える姿を見るとなんの躊躇もなく、息子を追って大海へと身を投じました。翌日の朝、海は嘘のように静まり、紺碧の空に太陽が昇り、凪(ない)だ海面は、きらきらと輝きました。船は無事薩摩(さつま)(鹿児島薩摩半島)の海岸に漂着したのです。楓麻呂の祈りが通じたのでしょう」
僧無一は一気にまくしたてた。

 この船には楓麻呂親子の他に、唐に琵琶の音楽を学ぶために留学し、今回、日本に帰国しようとしていた高内三郎(こうちのさぶろう)とその家族計五人、それに得体のしれぬ風来坊の優婆塞(うばそく)一人が乗っていた。この髪の毛をぼさぼさに伸ばした優婆塞は白村江の戦いで、捕虜になり、奴隷として苦渋の人生を送った日本人の末裔であった。
 高内三郎は留学中美しい舞姫と結婚し、男子と女子の二人の子供をもうけた。それに乳母を連れて五人で日本へ帰国するところであった。妻は三番目の子を宿していた。乗船時は家族水入らずで、日本での幸せな生活を夢見ながら笑いにあふれていた。
「ちょうど、日本は桜が満開の季節だ。何年振りかな。今年は家族皆で花見に行こう」
「桜は本当に楽しみだわ。日本は唐より暑いの、寒いの」
皆は日本到着を楽しみに意気揚々と船中で話がはずんだ。
 優婆塞(うばそく)は正体不明の風来坊で痩せて、目だけはギョロギョロとしていた。無口でほとんど喋ることがなかった。一食に米、数粒しか食べないのに何日過ぎても飢えることがなかった。舵師(かじし)や水手(かこ)達にとって彼は不気味な存在であった。
 優婆塞は楓麻呂に言った。
「俺のおやじは、どうも、あんたのおやじの部下だったようだな」
 母が代わりに言った。
「それは奇遇ですわ。日本に行ってからもよろしくお願いします」
posted by いきがいcc at 10:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 10.僧白遊の悲劇